集落立地

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古墳時代の集落の立地は、四・五世紀の初期のころは河川に臨む沖積地、水田周辺の低台地周縁に求められている。これは、弥生時代後期の集落立地に類似するものであるが、この時代になると、よりいっそうの農業土木技術の発達がみられ、河川の氾濫を防ぐための労働力の結集が図られるとともに、鉄製農耕具の発達と普及は、集落の沖積地など、低地帯への耕地拡大へと進んでいく。六世紀になると遣跡の数も著しく増し、集落内における住居址も量的に増加の傾向を呈し、立地も丘陵上や谷津(支谷)の周縁、そして、台地の深遠部や山間部へ拡大、分散していく。このような現象は、旧来の水田耕作を中心とする生産形態から、水田耕作の維持を図りながら、畑作農業へと新しい生産基盤を押し広げていく展開を示している。また、鉄製農耕具の普及とあわす、群集墳の出現に伴う地域的政治力の変化、集落における内的要因であろうとみられている。
 

土浦市烏山遺跡

 四世紀代の住居址は、方形あるいは長方形プランを呈し、全体に若干胴張りで四隅は丸味を有する壁面をもち、古墳時代初期の住居址とともに弥生時代後期の住居址と類似している。規模は一辺が一〇メートルを超す大型のものもあるが、五~六メートル前後のものが多く、炉は床のほぼ中央か、やや一方に片寄って設けられているのが通例である。五~六軒を単位集落として営んでいたようであるが、なかには、空地を囲んで五~六軒が環状に配列して集落を形成し、それも、出土品等の内容から、新旧の住居が継続的に複合状態で構成されている例も多い。
 五世紀代に入ると、住居の四隅にみられる円は少なくなり、方形が多くなる。住居内の施設は前代のそれが継承されているが、これが後半になると、壁面に「かまど」が設けられるようになる。床面に設けられていた炉から「かまど」へ推移は、火力を効果的に利用するという画期的な進歩であり、炊飯の場に対する生活の知恵のあらわれであろう。また、この時期の炊飯にかかわる土器の器形も、胴部の張った甕から長甕へとの変化がみられ、家屋構造も、軒先が地上面から離れていくという上屋の構造変化が指摘される。
 これが六世紀代になると、住居のプランは方形・長方形を呈するものが多くなり、各壁は直角に変わるようになる。この時期になると「かまど」が普及し、その位置は、住居の地理的条件などを考慮して北壁の中央部に設けられている例が多くなる。壁面に築かれた「かまど」も煙道が長くなり、火熱の利点にも進歩がうかがわれる。