20 貝塚古墳

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 貝塚古墳は、鬼怒川右岸の水海道市豊岡町貝塚甲地内の台端に近く独立して存在するものであるが、古墳から約二〇メートル隔てた地点から埴輪円筒棺が発見されており、これを古墳と考えるならば、二基存在したことになる。
 

貝塚古墳墳丘実測図(『七塚古墳群の調査』)


貝塚古墳主体部実測図(『七塚古墳群の調査』)

 調査は昭和三三年七月、上智大学史学会が行い、墳丘の外見は円墳状を呈していながらも、墳裾に作り出し施設が存在するなど興味ある事実が明らかにされた。
 古墳の規模は径約三〇メートル、高さは約二メートルを測る円墳であり、造り出しは東側に設けられている。主体部は墳丘の中央から、やや西の地点に墳頂下約二・八メートルのところに存在し、白色粘土塊を東端にして西方に向かって長さ約三・二メートル、幅約八〇センチの大きさで、U字状の掘り方を呈する。おそらく木棺直葬という簡単な葬法をもちいたものとみられる。
 主体部からの遺物の出土はなかったが、長さ約二メートル、幅約三・五メートルを測る造り出しからは雞形の形象埴輪が発見されており、古墳の周囲をめぐらす堀底からも円筒埴輪の破片や、土師器の破片なども発見されている。
 この古墳から北方に約二〇メートル離れた地点から円筒埴輪を利用した、いわゆる円筒棺が発見されている。棺は円筒埴輪の広口の方を組み合わせ、両側の穴及び胴部の穴を円筒埴輪の破片で覆っていた。棺の長さは約一メートルであり、その大きさから考えて、小児か、あるいは成人なら洗骨のごとき過程を経たうえで葬られたものとみることができよう。
 貝塚古墳と埴輪利用の円筒棺との関係については、いまにわかに推測をくだすわけにはいかないが、この地方の古墳の主体部の置かれている場所が墳裾か、あるいは堀に近接して設けられるという変則的現象をふまえて考えるとき、この両者の関係は極めて密接なものと考えられなくもないが、古墳の主体部の構造と埋置地点からでは、この方が年代的にやや先行するものと判断することが妥当のようである。
 

埴輪円筒棺出土状況(『七塚古墳群の調査』)

 円筒棺の出土状態は、通例のごとき簡単な埋置法がとられていたようであるが、大形古墳の陪塚のような位置関係から、あるいは陪塚と考えることも可能である。しかし、古墳の中心部に埋葬された人と比較して、身分的に下降する埋葬であることは否定できないところであって、その年代も、この地方に埴輪が盛行する六世紀に降る時期を想定してみたい。
 

埴輪円筒棺


雞形埴輪