下総国は葛餝(かつしか)・千葉(ちば)・印旛(いんば)・匝瑳(そうさ)・海上(うなかみ)・香取(かとり)・埴生(はにう)・相馬・猨島(さしま)(猿島)・結城(ゆうき)・岡田(おかだ)(豊田)の評(のちの郡)に分かれ、葛餝評内に国府(現在の市川市国府台附近)が置かれている。この領域を地勢的な面からとらえれば、平坦な台地とその間に開けた低地と河川湖沼からなる共通性を有しているが、特に北部に位置する相馬・猨島・結城・岡田地方の地理的環境は必ずしも恵まれたものとはいえない。生活可住地域もかなり制約されていたことが十分に想定できるし、また、国府からも、そして官道からも、ともに遠く離れた地域に位置していることから、施策の推進とその徹底を図るにあたっては、何かと不都合な点が多かったようにも思われる。
律令時代の下総(『市川市史』)
ところで、『延喜式』及び『倭名類聚抄』によれば、下総国の行政区画が一一郡九一郷に分かれていたことが知られる。特に、茨城県域に属する四郡は、豊田郡(大方・岡田・飯猪・手向の四郷)・結城郡(茂治・高橋・結城・小埆・餘戸の五郷)・猨島郡(葦津・石井・塔〓・八俣・高根・色益・餘戸の七郷)・相馬郡(大井・相馬・布佐・古溝・意部・餘戸の六郷)に加え、二二の郷があげられている。これらの郡及び郷について、現在の行政区画のうえからこれを比定考証することはなかなか困難なことではあるが、水海道市域について想定できることは、市域の北部にあたる花島・大生郷・大輪・羽生・豊岡地区、つまり、飯沼と鬼怒川に挾まれた台地を主とする範囲を豊田郡飯猪郷とすることが妥当のようである。さらに、南部に占める菅生沼と鬼怒川に挾まれた台地上の大塚戸・菅生・坂手・内守谷地区は、相馬郡相馬郷の西北部に位置するものと考えられる。それは、相馬郷全域の五分の一程度に相当するものと思われる。なお当時の戸数や人口についても、養老五年(七二一)の下総国葛飾郡大島郷(東京都葛飾区柴又周辺)の一郷六三戸の戸籍をみるとき、最大四一人から最少二人の多様な家族構成を示しており、一戸の平均は九・五人となっている。これを一つの基準として想定していくと、班田農民の戸数は八〇余戸以上で、人口も八〇〇人以上ということになるが、『常陸国風土記』に記される浮嶋村の村落構成の実態に注目せざるを得ないのである。つまり、当時の村は一〇数戸をもって一村を構成し、いくつかの小社を中心にした血縁的村落の営みが主であり、多数の人口で単位村落を形成していたとは考えられないからである。
以上をふまえて、ここで、律令体制の末端行政機関である豊田郡(岡田郡)及び相馬郡の郡衙所在地を検討してみる必要があろう。まず、郡内に郡名と同一名称を冠する郷が存在するとすれば、その地域内に遺跡を求めることが妥当であると指摘されていることを考慮し、岡田郷と相馬郷をあてることができよう。岡田郷は旧岡田村・旧蚕飼村・旧玉村を含む現在の石下町の行政区画におおむね該当する地域であるが、旧岡田村国生の地には、『延喜式』神名帳に桑原神社の鎮座することが記されている。社伝では宝亀三年(七七三)下総国司桑原王が創建したという。その真偽のほどはさておくとして、この地に式内社が奉祀されていることと併せて、「国生」という地名を付している点から推定して郡衙設置の可能性が強いと判断できよう。また相馬郡衙址の所在地についてはいくつかの疑問点もあり、現在の段階では確定的な要素を見出せないのが実状である。ただ、相馬郷地内に位置し、現在の取手市寺田小山(旧北相馬郡寺原村)に鎮座する八幡神社(相馬惣代八幡)附近から守谷町にかけての地域に、郡衙を求めている論者もある。また最近、千葉県我孫子市内の手賀沼北面の台地上に建設された県立湖北高校用地内の埋蔵文化財(日秀西(ひびりにし)遺跡)発掘調査で、官衙遺構と判断できる多数の掘立柱穴群が検出され、その規模と柱穴群の配列状況から、この日秀西遺跡の建物遺構をもって相馬郡衙址に比定するむきもある。いずれにしても、明確な所在地の究明については、今後の調査研究に期待せざるを得ない。
我孫子市日秀西遺跡遠景(千葉県沼南町から望む)
日秀西遺跡平面図(『我孫子市日秀西遺跡発掘調査報告書』)