仏教文化と東国

113 ~ 114 / 517ページ
下総・常陸地方に仏教文化が浸透した時期や、歴史的背景を明確にすることは困難であるが、『日本書紀』によれば、はじめて仏教が日本に伝えられたのは欽明天皇一三年(六四一)のことという。しかし、これは仏教公伝の年であるから、古墳の出土品の中に四仏四獣鏡や、仏具の一種と考えられる銅鋺等のあることから、仏教公伝以前に伝来していたことが推察できる。
 遠隔の地にあたる東国においても、深大寺(東京都調布市)や龍角寺(千葉県栄町)には白鳳期(天武天皇の時代、六七二~六八六)の仏像が遺存することから、白鳳期からそれほど下らない時期に当地方にも仏教とそれに伴う仏教文化が伝播し、限られた階層に普及がみられたと推定することができる。おそらくは、天武天皇一四年(六八五)三月に「諸国の家ごとに仏舎(てら)をつくり仏教及び経を置き、以て礼拝供養せよ」と勅したことや、同天皇一三年(六八四)五月と持統天皇元年(六八七)に帰化した百済・新羅の僧俗男女を武蔵国に配置したことなど、積極的な仏教弘布の姿勢を示したことが、仏教文化の普及に拍車をかけたのであろう。
 茨城県域の初現の寺院については、協和町及び千代田村内から白鳳期と推定される古瓦の出土例が報告されているにしても、飛鳥・白鳳期にさかのぼる寺院建立の確証はない。したがって、律令体制の動揺を防ぐとともに社会不安の一掃を図るため、仏教による鎮護国家を念じた聖武天皇が、天平一三年(七四一)に国分寺建立の詔を諸国に発したことによる常陸国分僧寺・尼寺の建立をもって、この地方における本格的な寺院建立の草創とみなければなるまい。
 国分僧寺は金光四天王護国の寺、尼寺は法華滅罪の寺と名づけられ、常陸国は現在の石岡市内に、下総国は現在の市川市内に建立されたのである。それぞれ国庁(国衙)の近辺に位置し、その寺域も大きく、僧寺は方二町(約二二〇メートル)、尼寺は方一町半(約一六五メートル)あり、その中に堂塔伽藍が配置されていた。