常陸国分尼寺

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昭和四五年(一九七〇)から数次にわたり調査が行われた常陸国分尼寺は、寺域を堀で画する方一町半の規模と推定された。伽藍配置の中軸線は寺域の三分の一ほど西側に寄り、南から南大門・中門・金堂・講堂・尼房が軸線上に配され、尼房の東西には食堂が並置されていた。中門から続く回廊は金堂をとり囲んで、その後方の講堂にとりつくなどが明らかにされるとともに、「法華」と記された墨書土器が出土したことにより、尼寺であることを確定的にした。また関係の瓦窯についても、八郷町・出島村・千代田村に存することが古くから知られている。特に、八郷町瓦谷の瓦窯址附近から国府に至る製品供給路ともいうべき古道も明らかにされていることは、極めて珍しい遺存例といえる。
 

常陸国分尼寺址伽藍配置図(『石岡市史』)

 なお、昭和五五年度において、茨城県教育財団が常磐自動車道の建設工事に伴う発掘調査によって、奈良~平安時代にかけての多数の竪穴住居址群の中に、全国にも類例のない長屋状(棟割)竪穴住居址一棟に加え、相当量の漆塗文書(行政文書)が発見され、古代史研究上に多くの問題を提供した「鹿の子遺跡」は、この尼寺址の西北に隣接する遺跡であり、最近、律令下における「軍団」遺構址と指摘するむきのあることを付記しておきたい。
 さて、勅命により国分寺・尼寺が全国に建立されたように、地域によっては郡寺としての性格を有する寺院の建立がみられたようである。例えば、新治郡の新治廃寺址(真壁郡協和町)、那珂郡の台渡廃寺址(水戸市渡里町)、河内郡の九重廃寺址(新治郡桜村)、筑波郡の中台廃寺址(筑波郡筑波町)、結城郡の結城廃寺址(結城市上山川)などは、いずれも郡衙址の近くに造営された寺院であって、郡名等を記した出土品などから、郡寺として地方住民に対する教化伝導の役割を果たした寺院とうけとめることができる。また、奈良・平安時代の郡域においては、なお、いくつかの廃寺址がある。それは、既述のとおり、古墳造営にかわる新たな権力誇示の手段とした寺の跡であり、遠隔地の有力者が、許容される経済力等で建立を図った氏寺的性格の寺院と推測することが可能であろう。
 

下総国分寺址(現国分寺境内)


下総国分尼寺址(金堂址)

 このころになると、仏教の仏播・受容によって、葬法の変化がしだいに顕著となってくる。まず、火葬の採用をあげることができる。すでに、大化の薄葬令(六四六)による造墓・葬送儀礼の規制措置が講じられたとはいえ、それはあくまでも、従来から踏襲されてきた造墓造営に厳しく対応している内容であって、火葬の採用による葬制の変革の背景は、あくまでも外来文化の仏教思想の普及によるものであり、そこが根本的に相違する点である。