薄葬令と仏教思想

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『続日本紀』文武天皇四年(七〇〇)三月一〇日の条に、僧道昭の火葬の記事がみえる。これをもって我が国における火葬の始源としているが、この一応定説化した火葬始源の記事に対する批判も多い。考古学的成果からみても、火葬人骨が発見された大阪府カマド塚古墳は、七世紀初頭をくだらない副葬品を伴っており、大化の改新前においても一部の階層では火葬を採用していたことを物語っている。
 いずれにしても、八世紀のころになると、仏教思想がかなり普及し、広く国民各層に浸透し、それまでの厚葬思想から薄葬思想に転移しつつあった。また、同時に考えられることは、東国でもこのころになると、高塚墳の造営がごく限定された地域を除いては完全に消滅してしまい、しだいに火葬の採用が一般化してくるようである。このように火葬が広く行われるようになってきた背景には、やはり、中国や朝鮮半島における火葬習俗の普及が本質的な端緒になっているものとみるべきであろう。
 これまで長い期間に亘り、慣習となっていた土葬から、まったく特異な火葬という遺骸処理法が導入されたことは、それがたとえ、特殊な社会や階層において採用されはじめたにせよ、日本の墓制史上画期的な事実であって、その本質は今日に至るまで継承されている葬制なのである。
 火葬された骨は、土師及び須恵質の有蓋容器に収められて土中に埋納される例が多く、高塚を築いて収めることはほとんどなくなっている。しかし、中には土壙を掘ったり、木炭を詰めたりして容器を収め、あるいは、石櫃や簡略な石室を設け、それに収納する特殊例もある。これらは極めて少なく、大半は土中に直接埋置する方法がとられていた。この容器を「蔵骨器」と呼んでいる。