県内出土の蔵骨器のうち、二~三特異な様相を呈するものをあげてみよう。
まず、石岡市と千代田村で発見された土師質の甕形土器は、いずれも胴部に人面が鮮明に墨書されており、それはまぎれもない忿怒相である。当初から蔵骨器として製造されたものではなく、必要に応じて蔵骨器に転用されたものと考えられる。墨書の意図を推測することははなはだ苦慮するところであるが、当時の葬送観の一端である死の穢れを除き、死者の怒りを解こうとする考えがこのような形で示されているものではあるまいか。さらに、桜村出土(九重廃寺址からの出土説もある)の須恵質の壺形土器は、胴部に三本の凸帯をめぐらし、肩部と胴上部に蓮花文を、胴中央部に「うず巻き」に相似する変形唐草文を施すなど、古代瓦の瓦当文様を採り入れた珍しい蔵骨器として注目されており、仏教思想が火葬容器に顕著に反映している例品である。
桜村出土の蔵骨器(国学院大学蔵)
当時の信仰は七世紀と同じく、主として薬師如来と観世音菩薩であり、国家仏教として官寺を中心に貴族層の信仰をあつめ、国家の安寧と五穀豊穣の招来が祈られた。しかし、当時民間では、仏教を純一なものとして受容せず、外国からきた神、新しい神として受容した。つまり、仏教は神仏習合という形で受容されていたのである。一方においては神祇信仰も行われていた時代であり、現世利益を求める点で神祇と仏教とのどちらも共通するところがあった。それは、行基(六六八~七四九)が民衆に仏教を拡げようとしたとき、神仏習合という形をとらなければならなかったことによっても明らかである。
この地方の民衆がはじめて仏の教えをうけ、心からその前にひざまずいたのは国分寺や郡寺などを中心とした貴族、豪族から強制されたものではない。それは、国分寺の建立と時期を同じくすると伝えられる鹿島神宮寺の創建(八世紀後半)を果たした満願(生没不明)や、天長元年(八二四)筑波山に中禅寺を開山して法相宗をひろめた徳一(天長年間会津恵日寺で没)などとの結びつきにこそ求められるのであり、国家権力が大幅に衰退を告げる平安時代の後半のころともなれば、民衆の仏教に対する期待がより増大していくのである。
鹿島町鉢形・鹿島神宮寺址の〓の配列状況