戸籍・計帳

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大化の改新の目的は、従来の豪族の支配を絶ち、中央集権的統一国家を建設して、人民を皇室に直属させることにあった。そのため、唐の制度を採り入れて公地公民とし、班田収授の法を行い、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)の税制を施行し、中央及び地方の諸制度の確立を図ることにしたが、これらの施策の基礎をなしたのが戸籍と計帳である。
 戸籍は班田収授、租税のとりたて、氏姓の確定などの目的のもとに六年に一度作成され、計帳は毎年作られて庸・調の徴収台帳とされた。例えば、六九〇年の庚午年籍ののち約三〇年を経過しているとはいえ、養老五年(七二一)の下総国大嶋郷の戸籍をみる限り、分量的にもかなりまとまっており、中央から遠く離れた遠隔の地においても、徹底した作成作業の推進が図られたと想定できる。常陸国でも天智天皇一〇年(六七一)にはじめて戸籍が完成したといわれている。千葉県我孫子市周辺に比定される意布郷の戸籍も、大嶋郷の戸籍と同年代に作成されたものであって、正倉院文書の中に「下総国倉麻郡意布郷養老五年戸籍」として現存していることを思えば、同じ下総国に属する当地方においても、養老年間に、郡司の監督のもとで造籍作業がすすめられていたことが、容易に想像されるのである。
 班田制の施行により班給(班とは「わかつ」の意)される田は口分田(くぶんでん)と呼ばれ、六歳以上の良民の男子に二段(約二・一アール)、女子にはその三分の二にあたる一段一二〇歩、賤民の奴婢(全人口に対する割合は一〇パーセント以内)には良民の男女のそれぞれ三分の一が与えられた。これは公地の原則に基づき、農民の最低生活を保障し、あわせて国家財政を維持するための課税を確保しようとするものであった。
 この班田制の施行を容易にしたのが条里制と呼ばれる地割制度であった。この制度によって整然と地割りされた耕地は、比較的広範囲な水田地帯に営まれたが、この土地区画方式には、ただ単に班田収授の事務上の便利さのみならず、農業技術的な利点もあった。現在までその土地割遺構は全国に分布しており、国衙・郡衙所在地周辺に多く認められるのも特徴的である。茨城県内でも、常陸太田市、石岡市・筑波町・真壁町・大穂町・桜村・下妻市の地内で明らかにされているが、水海道市域内の諸河川流域や湖沼の周辺では認められていない。おそらくは、地理的制約からその施行が困難であったためではあるまいか。
 

条里制模式図(『市川市史』)

 
租・庸・調等一覧
  正   丁
(21歳~60歳の男)
次丁
(61~
65男)
中男
(17~
20男)
  

(物納税)







(労働税)
口分田1段につき2束2把の稲を納める。
各郷戸が,計帳にそって総合税額を一括して国衙に納める
国衙の財用
諸司の常食用(春米)
歳役
(庸)
年10日間,上京して労役する
労役1日を布2丈6尺に換算納入
1/2京畿内は免除







調正規の調(絹・絁・糸・綿・布)
 絹・絁なら8尺5寸,糸は8両
 綿は1斤,布は2丈6尺
代用品 鉄なら10斤(6kg)
    鍬は3口,塩は3斗
    いかは30斤(18kg)
1/21/4中央官庁へ納める。運脚(京へ運ぶ)の負担(食糧は自弁)。京畿内の人民は半減措置がある。
調副物 紫・紅なら3両(112.5g)
茜なら2斤(75g),他に麻・油・調味料・容器など38種中1種
京畿内の人民は全部免除される。
雑徭年間60日を限度とする労役1/21/4国衙が日数を決定
国衙に対する労役
兵役正丁3人に1人を徴兵
 諸国軍団の兵士(常備軍)
 10番交代で上番勤務
 衛士(皇居防備)1年間
 防人(九州防備)3年間
食糧(族費の一部)・武器は自弁
兵士役につく者は庸・雑徭を免除,
衛士・防人は全課役を免除される。
仕丁50戸につき正丁2人を3年間徴発
50戸が食糧を負担する。
中央が行う造営事業の大きな労働力
雑税出挙春に稲や粟を貸付け,秋の収穫高の中から利息つきで回収する。当初の勧農救貧政策から官衙の収入めあての強制出挙に変質。利息は5割(実際は私出挙が拡大)



義倉備荒貯蓄策で,親王をのぞく全戸が,貧富財産の段階に応じて稲・粟を供出する。