人びとの生活

124 ~ 126 / 517ページ
さて、当時の人びとの生活の場であった住居址は県内の各地から発見されており、集落の実態はかなり明確にされている。
 それぞれの住居は竪穴式住居で占められているが、その形態を古墳時代のそれと比較した場合、かなり整っており、出土遺物にしても、鉄製農具の普及が注目される。このことは、畑作農業の盛行を物語るとともに経済力の充実を示すものとしてうけとめられよう。しかし、そこに生活を維持した人びとの身分的な面を推測し得る資料はほとんどない。したがって、集落内における支配的立場にあったとする階級的証左を遺構・遺物の面からとらえることはほとんど不可能であり、すべてが等質的様相を呈しているとしても過言ではない。
 口分田が与えられ、稲作が奨励されたことは、米が主要な租税の源泉にほかならなかった理由にもよるが、飢饉なども多かった古代においては、備荒用雑穀として、陸稲・大麦・小麦・そば・大豆・粟・きび・ひえなどの栽培や貯蔵も命じられていた。
 当時の人びとの副食物については、これまでに『万葉集』や正倉院文書などからかなりの品名を知ることができるが、現在調査がすすめられている平城京跡から出土する木簡(もっかん)から、より明確にされてきている。それは極めて多種であって、当時の農民のおかれていた生活環境からは入手困難なものもあり、果たして、実際にはどうであったろうかと疑問視する品目もある。ここに、その一例をあげてみることにする。
 
 野菜=かぶら・あざみ・ふき・せり・かさもち・わらび・よめな・じゅんさい・あさで・くず・いたどり・
    うり・なす
 根菜=いも・やまいも・大根・はす
 臭菜=ひる・にんにく・ねぎ・あさつき・にら・らっきょう
 海藻=わかめ・てんぐさ・かんてん・のり・あおさ・つのまた・ほんだわら・昆布
 果物=すもも・桃・梅・びわ・梨・みかん・くるみ・柿・なつめ・あけび・栗・椎・榧(かや)・菱(ひし)
 鳥 =にわとり・きじ・かも・うずら
 獣 =猪・鹿・牛・馬・うさぎ・鯨・いるか
 魚 =かつお・鯛・さめ・いわし・すずき・さば・まぐろ・ふぐ・ぼら・白魚・あゆ・うなぎ・ふな・ます・
    さけ・いか・たこ・くらげ
 貝 =あわび・はまぐり・かき・しじみ・さざえ
 調味料=塩・ひしお・みそ・なめみそ・酢・あめ・からし・しょうが・さんしょう・みょうが・わさび・こ
     しょう・ごま油・つばき油
 
 なお、この当時の食事の回数は一日二度が普通であって、激しい労働を行う者などは、その間に間食をとっていたようである。
 日常着として用いられていた着衣は、一枚の長方形の布の中央に穴を開けて、頭を入れてかぶり、体の前後に垂れた布を紐でしばる、いわゆる、貫頭衣である。
 ともあれ、律令の施行に伴い水海道地方の古代の人びとの生活にも多くの影響があらわれたとみるべきである。田租のほかに人頭税として調・庸、労役として雑徭(ぞうよう)・運脚(うんきゃく)(京への運上労役などの課役)のほか、義倉米(ぎそうまい)の拠出、公出挙(くすいこ)・私出挙・仕丁(里ごとの労役奉仕)など、各種の負担があり、さらには、すべて自弁であった兵役の義務も負わされるようになっていた。
 「青丹よし寧楽の京師……」の歌は平城京の繁栄を示している。その反面、税の負担に苦しむ農民の状態を示す長歌が、山上憶良の「貧窮問答歌」として『万葉集』に収められ、経済的に不安定な貧農の上に、遠慮なく重税がかかってくる様子が生々しくうたいあげられている。また、『続日本紀』にも班田農民が困窮して、浮浪・逃亡することが記されている。この浮浪・逃亡は造籍を困難にし、租税収入を減少させるとともに口分田の荒廃を招くのであるが、律令制の完成とあいまって、国域は拡大され、国力は豊かとなり、国家の繁栄は著しいものがあったとしても、その繁栄を支えたのは律令農民の生産力と労力にほかならず、それがための労苦ははかり知れないものであったというべきであろう。