班田制の崩壊

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奈良時代は律令国家繁栄の時代であるとともに、早くも動揺のきざしが顕著になってきた時代でもある。
 班田制度の動揺は、重い負担にあえぐ農民の逃亡と大土地所有とにあらわれる。養老元年(七一七)の詔には、浮浪の徒が激増し、王臣家の従者か僧侶になろうとしていることが指摘されているが、このような動向は時代とともに著しくなり、『日本霊異記』にみえる浮浪人探索の話も生まれるのである。
 土地公有の原則が崩壊する要因となったのは養老七年(七二三)の三世一身の法であったが、人口増に伴う口分田の補充を図るため、その前年に良田一〇〇万町歩開墾計画を立案したものの、思うような結果が得られなかったために、この三世一身の法で土地開墾の場合の私有期間を大幅に認めたのである。それがさらに、天平一五年(七四三)墾田永世私財法では公有原則が完全に放棄されることになる。とはいえ、許可・制限等いくつかの規制措置が講じられたのであったが、宝亀三年(七七二)になると、この規制策も消滅してしまい、貴族・寺社など勢力ある者の墾田開発は急速にすすみ、いわゆる初期荘園を発達させていくのである。
 律令国家の衰退が決定的となったのは九~一〇世紀のころである。この時代には、二百数十年間も続いていた遣唐使の派遣が、唐の衰退を理由に中止されており、それは、経済的負担に加えて大陸文化に対する中央貴族の情熱喪失と、貴族間の利害得失の争いといった国内事情に起因していた。中央での政治の行き詰まりは地方においても同様であった。延喜一四年(九一四)の三善清行の「意見封事十二箇条」にみえるが地方農村社会(郷)の疲弊の実態が生々しく指摘されており、農民は浮浪・逃亡・僧侶への転化などによって課役を逃れようとしたほか、戸籍をいつわる者も多く、これより以前にさかのぼる延喜二年(九〇二)には既に班田は実施されなくなっていたのである。
 このような情勢のもとで、中央に対する新しい動きが地方にみえはじめ、その最も強いあらわれが東国であり、ことに関東であった。藤原氏の政権独占のすすむさなかで、中央に対抗する坂東と呼ばれる広大な風土から、しだいに荒々しい力が醸成されていくのである。