東国は土地が広大なところから有力大地主(実力者・豪族)が出現し、かれらは自ら領主になるとともに、貴族や寺社の保護をうけながら勢力の維持と拡大につとめ、自己の利益を守ることに専念した。他方、中央においても、高位高官をもって中央官界に希望を託したとしても、既に、藤原氏の特定の門閥以外は出世の道が閉ざされていたことによって、志を地方に求め、国司となって下向するとそのまま土着した中央貴族が少なからず現れたのである。桓武天皇の子孫の平氏や清和天皇の子孫の源氏もそれであった。
こうして、地方の行政機構の統治者となった中央貴族の子弟に対して、政府は官職を授けて治安の権を委ねた。かれらは、その権威と地位を利用して私営田の開拓・拡張を図りながら、名門を中心として武士団を構成するとともに、一族を枢要の地に分置し、周辺の有力者を従属させ、実力をもって治安の維持と土地や農民の支配をつらぬいた。
このような歴史の流れの中にあって、特に上総・下総・常陸国にかかわったのが桓武平氏であった。
桓武天皇の曽孫にあたる高望王が平姓を賜り臣籍に編入されたのが寛平元年(八八九)とされており、ほどなく上総介として赴任したと思われるが、かれもまた、中央官界にみきりをつけて土着する考えで都落ちしたのであろう。土着した高望は中央の権力者と主従関係を結ぶかたわら、一族の繁栄を図るため私営田をたくわえ、上総だけにとどまらず下総・常陸にまで及んでいた。長子国香が「鎮守府将軍」・「常陸大椽」、次男良兼は「下総介」、三男良将は「陸奥鎮守府将軍」というように、それぞれ地方の高官に任じられていることは、ほかならぬ父高望の在地豪族としての確たる政治的・軍事的基盤を築きあげるための深謀にほかならない。その良将の子が将門であり、石井(猿島郡)に営所をおき、常陸川(利根川)沿いの低地を開拓し、また、鎌輪(豊田郡)に本拠を置いて小貝川と鬼怒川にはさまれた地域の私営田主として、その経営に積極的に取り組んでいたようである。
承平五年(九三五)、平氏一族の内紛が近隣の武士団の勢力争いとからみ、その争闘が表面化して将門の乱がおきた。