将門は伯父国香を殺害し、天慶二年(九三九)には常陸・下野・上野の国府を襲って国司を追放して自ら新皇と称し、坂東での王国を宣言して政府に反抗した。時を同じくして西海でも藤原純友が乱をおこしている。この二つの争乱に対して政府は、ただ神社仏閣に兵乱鎮定を祈るのみで何ら対応策らしきものもとらなかったという。結局は武士団の棟梁(将門は平貞盛・藤原秀郷ら)の力によって鎮圧され、その実力は政府や貴族の認識を改めさせた。やがて武士団の棟梁は中央に進出して有力貴族にとりいり、その武力を信頼され利用される過程においてしだいに勢力の確保につとめ、無能な貴族に代わる武家政権の掌握に一歩一歩近づいていくのである。
将門の乱ののち、東国の疲弊がはなはだしくなったことが知られる。天慶八年(九四五)、政府が諸国を年貢の実績によって評したところ、常陸国は公用荒廃に加え、荘園が増加して納貢も常でない悪国とされた。このことは、乱後における有力者が、その武力と財力をもって郡司の職を買得し、その職権を利用して荘園を拓き、富を増殖する策をとったあらわれであろう。