将門の乱と水海道地方

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水海道地方でのこの当時の史料は『将門記』を除いて、ほとんど見当たらないため、歴史の流れを明確にすることは不可能であるが、将門の乱にあたり、それが短期間であったにしても、将門の本拠地が豊田郡に置かれていたことを思えば、水海道地方の農民は、労役や物資の調達などで多くの負担を強いられたことであろうし、そのことによる農村社会の疲弊と荒廃の著しかったことは想像に絶する状態であったと推測できる。将門の乱の経緯については次節に譲りたい。
 なお、検討の余地を残す史料として大生郷町の大生郷天満宮境内の古碑がある。現在、銘文は磨滅しているため史料価値を失っているが、明治四四年(一九一一)に郷土史家飯島利七氏は碑文一二六文字を解読して次のように記録をとどめている。
 
常陸羽鳥菅原神社出移
菅原三郎景行兼茂等相共移
従 [筑波/霊地] 下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為 菅原道真卿出菩提供養也
常陸介菅原景行所建也
    菅原三郎景行卌四才也
    菅原兼茂卅七才也
    菅原景茂三十才也
 菅公墓地 移従羽鳥
 定菅原景行[常/陸]羽鳥之霊地墳墓也
  延長七年二月廿五日
 
 これによると、菅原道真の子供らが延長四年(九二六)に羽鳥(真壁町紫尾)の地に建立した神社を、三年後の延長七年になって、その理由は明らかではないが現在地に遷座したことが知られる。道真が九州筑紫の配所で没した延喜三年(九〇三)から数えて二七年目に当たる延長七年銘のこの碑は、平安時代の史料に乏しい当地方としては、極めて貴重な存在であるが、社伝等に基づき、後世に建立された可能性もありうる。そのことはひとまずおくとして、菅原神社建立の背景を考えてみたい。それは道真の供養にあることはもちろんであるが、父を神格化することによって一門一族の団結と繁栄を図る政治的意図が多分にあったからではあるまいか。一方、そのころ、中央での貴族間の争いのなかにあって、菅原道真の死をめぐって怨霊への恐怖が多くの人びとの心を支配していたこととも関連して、当初はその怨霊祈伏の祈禱的機能の建物であったとも考えられる。当時の東国の社会情勢からは、心に安らぎを求める者が多かったことも事実であり、案外、後者の推測が当を得ているように思われる。
 

菅原神社境内の古碑