下総豊田郡は平将門の根拠地の一つで、父良将(良持)は同郡岡田郷国生に館を構えていたといわれている。兄の太郎将弘
(1)はここで生まれ、将門は母方の相馬本郷
(2)で生まれたので、相馬二郎を名乗り、弟は御厨(みくりや)三郎といった。将門は父が陸奥鎮守府将軍として胆沢(いざわ)城(岩手県水沢市)で没したので、母や弟と共に苦労して育ったが、一八歳のころ、所領を伯叔父に託して上京し、摂政左大臣藤原忠平
(3)の従者となった。その後、従兄弟の平良盛は左馬允に任官したが、将門は皇居の瀧口の衛士になったに過ぎない。そこで自ら私営田(荘園)を経営すべく延長九年(九三一)帰郷し、伯父常陸大掾(だいじょう)平国香(くにか)や叔父平良兼(よしかね)に領地の返還をもとめた。
将門の乱の発端については伯父国香や良兼との間に所領についてのもつれの他に、前常陸大掾源護(さきのひたちだいじょうみなもとまもる)の女を争ったり、良兼の長女
(4)との問題などからである。
将門はこのような伯叔父の仕打ちに武力解決を意図し、差し迫る合戦にそなえていた。常陸の敵に対する要地として小貝川、鬼怒川の二重の防禦線である鎌輪(千代川村鎌庭)
(5)に陣した。鎌庭は豊田兵四、五〇〇はすぐに集め得る恰好の場所で、大結馬牧にも近く、さらに後背地に猿島郡、相馬郡の農牧地帯がある。
鎌輪(鎌庭)館址