緒戦

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承平五年(九三五)二月四日大串(下妻市大串)の源護の館から出撃した三人の子息、扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)らの軍勢を「野本」(6)に倒したことに始まる。源護を常陸国府に走らせた。進んで石田(しだ)(7)(明野町東石田)で国香を戦傷死させ、水守(みもり)(筑波町)の良正をも撃退している。将門は友軍平真樹(8)に護の別館取木(取本)を撃たせ、この戦闘で筑波、真壁、新治三郡にある敵の伴類の舎宅を焼き払った。承和元年(八三四)建立の由緒ある山王社、東叡山承和寺もこの時焼かれている。この情報は、在京の貞盛にも届いたが、母を案じ、はじめは将門と妥協するつもりで帰郷した。しかし水守(みもり)館主の叔父平良正は、妻の父との関係からあくまで将門を討とうと貞盛を説いて味方にひきいれた。しかしまえに一〇月二一日、良正は豊田兵に「川曲(かわわ)村」で敗走している。源護は、使者を京都に立て将門の挙兵を政府に訴え、他方良正は兄良兼に援助を求め、貞盛とともに報復を企てていた。
 上総介良兼は翌年六月、上総の武射郡より関所をさけて、下総国香取郡神前(千葉県神崎町)、常陸国信太郡椅崎(江戸崎町)を通過し翌朝、水守営に着き、貞盛を合流して下野国に向かったが、七月二六日、常野の国境にて追撃してきた豊田兵と合戦し八〇余人を射倒された。良兼勢は下野国府に逃げ込み、将門はそれを包囲したが同族のこととてそこから逃がしてやった。
 承平六年(九三六)九月、左近衛番長英保(あなほ)純行(9)らの京都使者が将門らの召喚状を携えて東国へ下行した。しかしその日付は前年の一二月という中央政府のていたらくを示すものであった。将門はこの間に上京し、同年一〇月一七日陳弁し、検非違使所では無罪となり、京中に武名をあげ、承平七年(九三七)正月三日、朱雀天皇元服に、同年四月七日恩赦があり、五月一一日将門は都を辞している。