同年八月六日、良兼は敗戦の恥をそそごうと、子飼(小貝川)の渡に故高望王と将門の亡父の霊像を掲げて迫った(10)。その軍容はこれまでとは比較にならぬほど強大で、さすがの将門軍も退却せざるをえなかった。軍勢はさらに栗栖院常羽御廐(くるすいんいくはのみうまや)(11)の別当多治経明を破り、同院や百姓舎宅を焼き払い、馬などを略奪し引きあげた。この時、将門は古間木(石下町)に隠れていたが、水海道や石井(岩井)から集めた兵は七四〇人を数えている。
同月十七日、将門は下大方(おゝかた)郷堀越の渡(12)に出陣したが、脚の痛みに、数時間のうちに崩れて一時妻妾とともに、幸島(猿島)郡内の葦津江(13)に逃れたが、危険がせまったので、婦女子を船中に隠し、「広河の江」に浮かべ、自らは「陸閑」の岸に逃れた。良兼は翌々日、将門探索をあきらめ大通(14)から幸島道を縦断して上総に帰った。将門の妻妾らは監視に残った良兼の子息らに生け捕られた。妾は、平真樹の娘で、葦津江対岸六間(15)で殺されたので、後に父親が真壁郡木崎の大国玉神社附近に后神社を建てている。また船七艘の雑物や三〇〇〇余端の絹布の略奪とともに、上総国へ連行された正妻は、舎弟らの一計によって豊田郡に帰還することができた。