良兼の別荘服織(はとり)(真壁町羽鳥)は古代服織部(はとりべ)の地で、絹布の産地であった。万葉集にも
「筑波嶺(つくはね)の新桑繭(にひぐはまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲(きほ)しも」(『萬葉集』日本古典文学大系)
と歌われ、現在も蚕絹の神、蚕影(こかげ)神社が祀られている。
将門は敗戦の恥をそそぎ、失った絹をとり戻すため、反撃の機会を待っていた。羽鳥は大生郷(水海道市大生郷町)にある菅原天神社の旧地でもある。良兼が常陸羽鳥にやってきた噂を仄(そく)聞して、将門は兵一八〇〇余とともに出撃した。しかし、良兼館は攻略したが、良兼軍が筑波山系弓(湯)袋山に逃がれたのを見失ってしまった。この戦いで将門は、現地徴発の戦利品を積んだ牛のうち一〇頭は稲穀を食い過ぎて死に、従兵は蓑笠で夜営したが泥酔して敵に殺された者七人とあり、平真樹の兵は無事であった。