石井の夜襲

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承平七年一一月、朝廷は武州・房総・常野の諸国に将門に合力して、良兼・護・貞盛・良兼の子公雅(きんまさ)・公連(きんつら)・泰清文(はたのきよぶん)らを追捕するよう官符を下した。将門は気をよくしたが、諸国の国司らは、私闘とみてか動かなかった。そればかりか、英保純行は再び将門の召喚状を持って下行するという朝令暮改があった。そのころ、良兼は豊田郡岡崎(おざき)(尾崎)に住む将門の駈使、丈部子(はせつかべ)春丸を手懐け身寄りの女を石田(しだ)(東石田)に訪ねた時捕えた。東絹(あずまぎぬ)(一説、練絹)一疋を与えて石井営所の内情を探らせ、うまくゆけば乗馬兵として郎等にとりたて、衣糧を与えるという話であった。小春丸は喜んで一夫を連れて帰宅し、炭真木を石井営所に運んで、宿衛しながら、兵庫、将門の居所、東西の馬打南北の出入口など見覚えさせ報告させた。
 同年一二月一〇日夕刻、上兵(じょうひょう)(16)多治良利ほか精兵八〇余騎の良兼軍は石井営所に向けて羽鳥を立った。午後一〇時ごろ、結城寺(法城寺は誤)前にさしかかると、たまたま将門方の部将坂田時幸の物見兵が発見、夜襲の気配を察知し後方の隊列にまぎれこんで進んで行くうちに、「鵝鴨ノ橋(かものはし)」(17)にて追い越し石井に急報した。将門方の軍兵はこの時刻、大部分が帰農していて、営所には主従合わせて一〇人にも満たない数であった。翌朝六時、良兼軍は営所を包囲し総攻撃を開始した。しかし将門軍は歯をくいしばって敵中に突進し、敵と打ち合い良利を射倒した。敵の残兵は将門軍の勇猛果敢な行動に動揺し楯を捨て逃げ去った。