承平八年(九三八)春二月、平貞盛は再官途に希望を託し、中山道を経て京都に上がった。将門は讒訴されることを阻むため、一〇〇余騎の軍兵を引き連れて追跡し、碓氷峠を越えた。二月二九日、信濃国小県郡国分寺辺で貞盛に追いつき、千曲川原で合戦したが勝負がつかなかった。この戦いで敵の上兵他田真樹(おさだのまき)を射倒したが、味方の文屋好立(ぶんやのよしたて)も矢傷をうけた。将門は山中に逃げ込んだ貞盛を発見することができずやむなく本拠地に引きあげた。命からがらやっとの思いで、京に辿り着いた貞盛は将門の非行を太政官に訴え、糺問の官符をもった使者が天慶元年(九三八)六月中旬京を下行した(18)。