武蔵国の政争

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そのうちに、上総介平良兼が死去した。貞盛は常陸国庁の後ろ楯があったにもかかわらず将門との抗争で逃亡生活を続けていた。そのころ将門は武蔵新国司と郡司の紛争の仲裁に出た。
 承平八年二月中旬、武蔵権守興世王、武蔵介源経基らと足立郡司武蔵武芝(19)とが治政のことで衝突した。興世王らは慣例を破って武力に訴えて、管轄地域に入部し重税を課したり、公財を私したので、武芝は国府から本拠地大宮へ去った。武芝は私営田領主であるから私財の蓄穀もあったが、興世王らはそれにも収奪の手を伸ばし紛争が絶えなかった。将門はこれをみて石井営所から急拠、石井・豊田の軍兵を率いて、比企郡狭服山(20)に向かった。途中武芝と合し、調停のため国府に入った。興世王との和解は調ったが、武芝の後陣はそれとは知らず山上の経基の営所を囲んだ。経基軍は非常に驚いて逃亡し経基は京にのがれた。将門はこと志とちがったことを惜しみながら石井に帰還し、王は国衙にとどまり、武芝は大宮に隠棲した。
 一方、京に入った経基は、将門と興世王が謀叛を企てたと太政官に偽奏したので、関白藤原忠平は真相調書のため天慶二年(九三九)三月二五日付御教書を、中宮少進多治真人助真に託され、その書状は同月二八日に届いた。そこで将門は常陸、下総、両毛、武蔵の五か国の解文(公文書)に無実の証明を得て五月二日付でその旨を言上した。
 そのころ武蔵では興世王と新任国司百済貞連(くだらさだつら)は姻戚にもかかわらずそりが合わず、興世王は将門の許に身を寄せていた。五か国解文もあって将門はいよいよ人望をあつめ、その威勢は国外にまで及んでいた。