国庁乱入

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このころ、常陸国鹿島の豪族藤原玄明(はるあき)が官米を横領するなどの悪行を働き、国府側と紛争を起こしていた。新任の常陸介藤原維幾は、玄明のたび重なる罪禍に業を煮やし太政官符の指示によって逮捕しようとしたので、玄明は妻子従類を引きつれ下総国豊田郡の将門のもとに逃げ込んだ。将門は先に武蔵権守興世王の寄寓を許したが、今度は「国の乱人」の侵入をも庇護したわけで、このことは、紛争が単なる同族間の私闘の域をこえたことになる。
 常陸国府から玄明の引き渡しの通牒が将門のもとに頻りに届けられたが将門はそのつどこれを拒み続けた。そればかりか、玄明を下総の国土に住まわせ、身柄を追及しない要請状を国庁に申し入れていた。国側はこれを斥け合戦によって事を決する返答書を送ってきた。
 天慶二年(九三九)一一月二一日、将門軍の一〇〇〇余騎は常陸国府(石岡)に殺到し、官兵と貞盛、為憲(維幾の子)らの三〇〇〇余騎と合戦に及んだ。将門軍には常陸掾藤原玄茂の内応があり、たちまち三〇〇余戸の民家が焼かれた。長官藤原維幾は屈服し、滞在中の詔使(21)も共に捕えられた。奪った綾羅(絹織物)一万五〇〇〇反、その他夥しい美麗を誇った財宝の数々が下総、常陸兵に分配された。将門軍の掠奪は数日間続き、二九日、国府の印と鎰(やく)(国倉の鍵)を没収し、長官維幾と詔使弾正藤原定遠を捕虜とし、「鎌輪之宿」の本拠地に凱旋した。
 この事件は、坂東諸国の国司を震駭させただけではなく中央政府の役人をも恐怖におとしいれた。『日本紀略』は将門の国府襲撃を一〇日後に京に報告している。国庁に乱入占拠し、印鎰を奪った行為はそれまでに前例がなく、私戦を棄て、公然たる国家権力への挑戦を示すものである。