最後の戦い

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午後三時ごろ、敗走する将門を追って、秀郷・貞盛軍は、水口村(33)に達した。将門は太刀をふるって自ら陣頭に立って戦ったが、三〇〇〇の軍兵の攻撃は容赦なかった。貞盛は、将門軍は私賊であり、我が軍は公軍であり天が味方すると激励した。
 やがて日暮れて、戦闘も一時、小康状態を保っていたが、将門軍は楯を前方へ押しやって防戦した。そのうちに日が暮れ貞盛・秀郷軍は引揚げ新皇も鎌輪館へは退却せず、敗北を恥じ憤りながら石井営所へ戻っていった。
 同年二月一三日、貞盛と秀郷は最後の決着をつけようと用兵を調え、下野より南下して、幸嶋郡堺(境町)に到着した。将門は漸く兵具を調えて石井営所から北上して染谷川(34)を挾んで、秀郷、貞盛、繁盛、為憲の連合軍二九〇〇と対陣した。秀郷は一軍を川上から迂回して攻撃をかけて来た。これに対して、将門は、石井の営所を戦火から守り、さらに、疲労した敵兵を地理不慣れな場所で一気に殲滅しようと、幸嶋(さしま)の広江(35)にわざと身を隠した。しかし、老巧な軍師秀郷は、この誘導作戦には乗らず石井営所を直撃した。そして、将門本拠の「妙屋」(36)寺院、与力、百姓家をことごとく焼き払った。翌日、将門は、「恒例ノ兵衆」八〇〇〇及び豊田兵の援軍すら待たず、猿島兵と弟将頼の相馬兵合わせて四〇〇余のまま最後の決戦地北山(37)へ陣を移動した。
 天慶三年二月一四日未申の刻(午後三時ごろ)両軍の戦闘は開始された。新皇将門は順風(38)を背負い有利な位置に立ち、貞盛、秀郷軍は風下に立った。この日は、日光颪が梢を鳴らし、地を揺るがして激しく砂塵が舞い上がるほどであった。将門側の楯は、前方へ倒れ敵の楯は兵士の顔面をうった。弓矢がつかいものにならず戦いは白兵戦に移った。将門軍の従兵は馬を駆って貞盛兄弟の中陣に突入し八〇余人を、たちまちのうちに討ちとり、これに動揺した貞盛配下の従兵は総崩れとなり、北走し呼び戻されて留まった精兵三〇〇人であった。
 将門は焼あとの営所の本陣に立ったから風下に立つことになった。貞盛軍は身を挺して力戦し、新皇も甲胄を締めなおして駿馬を鞭打って陣頭に立った。しかし、今まで風のように疾駆していた軍馬が突如あゆみを止め、騎馬武者もまた緊張した気力の糸が切れた瞬間に、貞盛の射放った一本の鏑矢(39)が命中し落馬した。将門のあえない最期であった。
 藤原秀郷によって刎ねられた将門の首(40)は、下野国府にもたらされ、解文を添えて京に送られた。