このような掃討作戦が進行するなかで、貞盛、秀郷、経基等の論功行賞が行われ、それぞれ、正五位上、従四位下、従五位下に叙せられた。また、「純友の乱」の鎮圧後、天慶五年四月には、下総一宮香取神社や、常陸三宮吉田神社の昇格があり、東国を席捲した反乱は急速に鎮静していった。
将門没後尼僧が将門絶命の地を訪れここに庵をむすんだ。尼僧は名を如蔵尼(地蔵尼)と言い将門の女といわれた。戦乱の最中、奥州黒川(他に岩城)の恵日寺に匿われ長じて亡父の供養のため再来したという。そして三十三年忌に国王神社(岩井市)を建て、恵日寺に戻っている。また、将門の後裔である相馬氏は、後年、将門ゆかりの神社と延命寺に永代祭祀料、社殿造営料を奉納しているが、市内大塚戸町の一言主神社本殿再興に際しても長禄三年(一四五九)内守谷城主相馬弾正胤広が莫大な寄進をしている。要するに律令制度に圧力を加え、農民に更生の道を開き、貴族政治を抑制し、武家政治の基を開くなどその意義は大きく、今日一般に再評価されるに至った。
国王神社
将門戦跡図(数字は行動順序)
(図)
註
(1) 蔵持村(石下)神子女(みこのめ)(王子埋め地)に埋めらる
(2) 将門の将頼らの母は、犬養宿袮浄人の裔春枝の娘
寺田から守屋(守谷)までの間の数か村で相馬郡惣代石清水八幡宮がある。相馬郡は伊勢皇大神宮を本家と
する相馬御厨
(3) 将門の荘園の本家
(4) 将門に嫁入りし後に葦津江で捕われた正妻である
(5) もと鬼怒川の川輪になっていて、今は鎌庭といっている結城郡千代川町の大字
(6) 「野本」は河内郡野爪、あるいは真壁郡上野の両説がある
(7) 葛原親王が常陸の国守の時に開いた荘園
(8) 平真樹は大国玉神社神官
(9) 英保(あなほ)氏は猿島郡穴穂部(境町穴辺)の同姓の郡司の裔
(10) 常陸と下総の国境、相馬郡筒戸(今は筑波郡)禅福寺記には妙見八幡童子が弓矢をさし出して助けに現わ
れた図があるが、実は将門は神から見放された
(11) 栗栖院の観音坐像(一説に薬師像)は、のち、天正後期多賀谷重経建立の栗山観音堂に奉納
(12) 鬼怒川の干潟の郷で、堀津(仁江戸)掘戸で今の仁江戸
(13) 葦津は辛(幸)島郡六郷の一つで広河の江(飯沼)の入江
(14) 大通は青鳥(おおとり)とも書かれ、今の猿島町(逆井)大鳥
(15) 六間は「将門記」に陸閑岸とあり、三和村尾崎の六軒で石祠は近くの観音堂敷地に移されてある
(16) 上兵(じょうひょう)は良将が赴任した胆沢鎮守府の制度である。良利は来住した部将で、他に上兵に文
屋好立、他田真樹がある
(17) 釜橋(結城市山川の新宿)か八坂下橋(矢畑・大木間)
(18) 天慶二年(九三九)六月が妥当
(19) 武芝は神護景雲元年(七六七)足立郡人武蔵国造(くにのみやつこ)不破磨の裔で、氷川神社神官を兼ね、
「更級日記」に武芝寺(東京港区三田)には武芝の墳墓がある
(20) 諸説あるが狭山
(21) 交替使
(22) 大計帳(貢納・賦役・戸籍)、正税帳(国郡一年間の収支決算書)、調帳(調庸・雑物調書)、朝集帳(地方
庁の年間報告書)
(23) 一説には、将門に同意内応したとある
(24) 第五章第一節参照
(25) この書状の日付は『将門記』抄出本「蓬左文庫」の説
(26) 『師守記』に天慶三年四月一二日、将門弟将種(将為)なる者が陸奥権介伴有梁とともに乱を企てたとある
(27) 皇居については、『今昔物語集』には「下総ノ国ノ亭」『扶桑略記』には「猿島郡岩井郷南亭」『帝王
編年記』には「猿島郡石井郷」『神皇正統記』では「下総国相馬郡」『相馬日記』では守谷町の「相馬内
裏」に比定している
(28) 京の山崎は、淀川に臨み、附近に妙見山・市場・石清水八幡宮がある。将門はこの地形に類似した所に
浮橋を架そうというもので、岩井市大崎(大崎村高崎市神大六天)、尭谷(菅生沼)、対岸の菅生村(水海道
市)の八幡宮、妙見社(合祀して日枝神社)の附近にこの構想を得ようとしたと思われる
(29) 「大井ノ津」を「御津海道」として、衣川(鬼怒川)子飼(小貝)に挾まれた要所としている
(30) 蒜間江は涸沼で貞盛方の館が現在の大野村平戸附近にあった
(31) 将門は「よそにても風の便りに吾ぞ問ふ 枝離れたる 花の宿りを」と詠むと、貞盛の妻も唱和している
(32) 延喜一六年(九一六)一族一八人ともどもに罪を犯して配流された記録が『日本紀略』に見える。後に将
門追討の功により、下野守、武蔵守、鎮守府将軍に補せられた
(33) 結城郡八千代町の水口
(34) 「大日本地理辞典」では上野国群馬郡花園附近としているが地理に合わない。猿島郡境町内に「染谷」
の地名がある
(35) 飯沼の葦津江を比定している
(36) 石井に設けられていた后の家屋の対屋
(37) 国王神社は島広山の北方で上岩井北林に近い
(38) 島広山附近は南面して水田地帯が多く、砂塵を飛ばす地形環境ではない。頭上で折れる木の枝もない、
将門は前日猿島の広江に身を隠しているから、貞盛軍に対しては北山から攻撃している。ここでの順風は
むしろ日光颪である
(39) 『将門記』では「天罰」「神鏑」にあったとし、『扶桑略記』には貞盛の矢にあたり、秀郷が将門の頸
を斬ったとある。またこの時射殺された伴類「百九十七人」戦利雑物として「平楯三百枚」「弓胡籙各々
百九十九具」、「太刀五十一柄」が記録されている
(40) 将門の首は石井営所の井戸で洗われ京に送られたとか胴体は相馬守屋(守谷)の弟将頼が秘かに神田山
(かどやま)の延命院に葬った説、また首は東京都千代田区大手町に首塚の伝説がある。さらに将門調伏に
は、千葉県成田山新勝寺の沿革、比叡山修法伝説、東大寺羂索院の神像伝説が知られている