将門の乱から約九〇年後、常総武を席捲する大乱が起こった。忠常の乱である。そのころ常総の政情は、常陸を中心に平貞盛・繁盛の勢力があり、常総から武蔵にかけて、将門の叔父平良文の勢力があった。良文は村岡五郎と称し武蔵村岡に住し、源宛と争ったが、後に刎頸の交わりをした。なお、宛の子孫は古間木(ふるまぎ)城主(石下町)となっている。良文は相模や下総の村岡をも領し、将門滅後、その荘園を得たという「千葉系図」は疑問が多い。また下総国司となってからは、上州群馬郡の妙見明神を千葉に奉祀し、武州両総に確固たる権勢をもっていた。そして、子忠頼は、将門の女を娶って忠常を生んでいる。
このような二つの勢力は、時として常総地方の覇権をめぐって内訌を続けていた。例えば、平繁盛は、九条右大臣師輔に仕え、太政官符によって、将門調伏に功績のあった承和寺(真壁郡上野村にあり、後関城に移り千妙寺になる)の金泥大般若経一部六〇〇巻を写経し、延暦寺に納める途中、忠頼の妨害を受けている。これ常陸側でありながら下総の一部を持っていたという理由からであろう。繁盛の子維幹は常陸大掾に任じ、筑波郡水守(みもり)に住み、「水漏太夫」といったが、のち筑波郡多気(たき)(北条)に移って「多気大夫」と称した。荘園は、筑波・真壁・行方・鹿島・那珂・信太六郡にわたっている。