平忠常は、前上総介兼武蔵押領使として下総海上郡の大友館に住み、武蔵・両総に私領をもち羽振りをきかせていた。源頼信の告文によると、「現任国司をしのぎ、官物を牢籠する」勢いで、他国司とも争いが絶えなかった。
長元元年(一〇二八)六月、検非違使平直方、中原成道による追討が決定されたが、進発は八月に遅れた。その間、忠常は上総国府に侵攻し長官の妻子を抑留した。さらに安房国に入って、安房守惟忠を焼殺してしまった。
追討軍は八月五日に京を出発、下総国府(市川市国府台)に到着すると、下総守為頼と常陸の平維幹がこれに応じた。上総国府には繁盛軍が駐留し、安房の新任国守藤原光業軍と忠常を挾撃する作戦にでたが成果はあがらなかった。
翌年二月、朝廷は再び平直方を追討使に任じたが、反乱軍の抵抗の前に動きがとれなかった。この年追討副使中原成道は職務を解かれた。
長元三年三月、忠常の兵が再び安房国に侵入した。国守藤原光業は印鎰(いんやく)を棄てて国衙を出奔したため、平政輔が国守に任官したが、東国へ向かう途中平致(むね)常と合戦に及び着任できなかった。関白藤原頼通は平直方を召還させ、直方の女聟である甲斐守源頼信を追討使に任命した。『今昔物語』に、「衣河ノ尻ヤガテ海ノ如シ。鹿嶋梶取(かしまかとり)ノ前ノ渡ノ向ヒ、顔不レ見(みえざる)ヘ程也。而(しか)ルニ、彼ノ忠恒(常)ガ栖(すみか)ハ内海ニ遙ニ入タル向ヒニ有ル也。然レバ、責ニ寄ルニ、此ノ入海ヲ廻テ寄ナラバ、七日許可(バカリ)廻シ。直グニ海ヲ渡ラバ、今日ノ内ニ被責ヌベケレバ、忠恒、勢有ル者ニテ、其ノ舟ヲ皆取リ隠シテケリ。」とあるところから、忠常の居館が現在の香取郡東庄町大友附近に比定する説もある。とにかく、頼信兵三〇〇〇、維幹兵三〇〇〇は、「真髪ノ高文」(1)に案内されて入海(鬼怒川)の浅瀬を騎馬のまま押し渡ったので、忠常は頼信の武勇を知って直ちに投降したという。晩年、石清水八幡宮に納めた一通の願文には、忠常の乱を一兵も用いずして鎮めたという意を奉告し、源氏の棟梁としての満々たる意気を窺いとることができる。
忠常は京に連行される途中、美濃国蜂屋庄野上にて病没した。頼信は長元四年(一〇三一)六月、忠常の首を持して入京した。しかし、忠常の子常将・常近は処分されないで罪を許されたばかりか、父の遺領をそのまま安堵され、のちに千葉介・上総介として繁栄する。ここに、諸平氏一〇〇年間の不和は、源頼信の手腕により解消し、ともに源氏を棟梁として子々孫々まで受けつがれていくのである。石毛荒四郎政幹(将基)は常陸大掾氏の一統として下総豊田に住し、平氏豊田四郎の名を東国になすのである。
しかし、五年間の戦乱による房総三国の疲弊は深刻なもので、「左経記」には、上総国の被害状況がこと細かに報告され、「小右記」には、下総国守までが飢餓状態になったことを記している。
註
(1) 維幹の従者。真壁の住人と解する説もある