延暦二〇年(八〇一)坂上田村麻呂の蝦夷征服があり、天喜四年(一〇五六)より前九年の役あり東北は騒擾した。このころ、朝廷に帰順した蝦夷を浮囚(ふしゅう)という。その長は浮囚や東国からの移民などを統べて、しばしば叛乱を起こした。その遠征兵の多くと、輜重(しちょう)(兵粮など)の運夫は、東国から徴された。田村麻呂によって鎮守府は多賀城から胆沢城に移され、奥六郡の民政は俘囚の長安部氏等が握った。北上川流域には鳥海柵、厨川柵等一二柵があった。安部頼良(よりよし)は実力を蓄えると租庸を怠るようになった。しかし源頼義が陸奥守になると声望によって帰順し、名を憚り頼時と改めたので一応は大赦免罪された。前守平直方は、武勇な頼義を女婿とし義家・義綱・義光らをもうけた。頼義が鎮守府から多賀国府へ赴く途、安部頼時の息貞任(さだとう)は見染めていた藤原光貞の妹を欲したが断られ光貞の宿所を夜襲した。頼義は無礼とし、天喜四年七月下旬討伐を決意した。安部父子との戦の報に真壁郡では大宝八幡宮神官、豊田郡では多気大掾致幹(むねもと)(宗基)の弟、赤須四郎政幹(まさもと)(1)が豊田兵を率いて参陣した。合戦に及んで阿武隈渡河戦に政幹は副将軍として先陣をきったが、水辺に育ち将門以来勇敢な水海道兵もあったと考えられる。「陸奥話記」によって戦況をみると、第三勢力、安部富忠の説得に頼義は成功し、天喜五年(一〇五七)七月、頼時は鳥海柵にて流れ矢に当たって失命した。同年一一月、頼義の本軍、政幹の豊田軍共に寒気欠糧に苦しみ、寒気に馴れた地元兵に破られたが義家は善戦して挽回した。同一二月、出羽国の長官は頼義に救援を請われたが無為であったので罷免された。賊将平経清は各郡の官稲を私していたが頼義に捕えられ刎首された。