乱の平定

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康平五年(一〇六二)春、新任陸奥国守に対し士民共に不服であったので頼義が重任となった。出羽の清原武則を招くと同年七月、武則は一万余を率いて来た。頼義は三〇〇〇余を以て国府を発し、八月九日営岡(たむらがおか)(2)にて合流した。八月一六日、七陣に分かれ翌日は貞任の弟安部宗任と、その叔父僧良照の籠った小松柵を攻略した。頼義は本陣、副将政幹の豊田兵は先陣、九月六日、衣川関の貞任八〇〇〇の兵を討った。武則は兵を渡河させ貞任の陣を焼き鳥海柵に敗走させ追撃落城させたのは九月一日、一四日から一六日まで追跡し厨川(くりやがわ)柵を火攻めにし貞任を戦死させた。白晢偉容肥大の遺骸は大盾(たて)に載せて六人で担いだ。頼義は一三歳の貞任の童子は助けるつもりであったが武則の進言で殺した。泥池に飛びこみいったん逃れた宗任は斬首をねがって降って来た。一二月一七日の国解には帰投者を添えて出され、宗任ら五人は京にて助命、各地に移された。宗任は都人が差し出した梅花に「我が国の梅の花とは 見たれども 大宮人は何というらん」と詠じて風流のほどを示している。宗任は伊予からさらに九州太宰府に移されたから九州に子孫の松浦党を残している。先の上京には愛慕した士民が随行した。箱根関では通過制限があるので大部分は帰った。松本氏らは九州からの帰郷の途、日光から毛野川(鬼怒川)を下り豊田につき土地の士民と共に安部宗任を敬慕し、赤須村(宗道)に宗任神社を建てた。先に将門や菅原道真も神格化されたが、これ豊田士民の敬神に基づく美風である。
 

宗任神社(千代川村宗道)

 頼義は政幹と共に従事した大宝八幡宮司の功をよみし、かつ武運長久を祈るため同八幡宮(3)を寄進改築している。戦功により頼義は正四位下伊予守、義家は従五位下出羽守、義綱は左衛門少尉に叙任。武則は従五位下鎮守府将軍に任、旧領の外に奥六郡をいただく。赤須四郎は九か年の戦にしばしば戦功をたて豊田郡を賜り豊田城を築き、低湿地帯を開き豊田荘を営み豊田四郎と称され、石毛(石下)にも館を構えたので石毛荒四郎将基ともいわれた。義家は勿来関で山桜を賞で詠ずるほどの文武両道の達人だが鎮守府将軍になり損ねて物足らず越中守に転出した。時に父は五〇歳、己は二五歳であった。
 
  
  (1) 赤須は赤洲で赤土の村。政幹は現在の千代川村宗道の近辺の住人で将基とも書く
  (2) 営岡は坂上田村麻呂の陣した拠点である
  (3) 県文化財である今の神社本殿は、天正五年多賀谷政経の寄進築造したものである