鳥羽上皇は崇徳天皇を斥けて美福門院(近衛帝母)の勧めにより当時三歳の皇子、近衛幼帝を立てた。こうして鳥羽上皇と崇徳新院は不和となった。
近衛天皇は藤原頼長が学者ぶるのを忌み、その兄忠通を信任したが早世された。後継は新院の皇子でなく美福門院の皇子、後白河帝が即位したから皇室の内訌が高まった。藤原忠実は長子の摂関忠通より次子頼長を愛した。
兄弟はそれぞれ子女を后に入れようと争い弟がまず入れた。父は頼長を内覧にしようとしたが忠通が妨げたので藤原氏にも内訌が高じた。鳥羽上皇と天皇方には忠通、崇徳新院には頼長が結ばれた。保元元年(一一五六)七月二日、上皇薨じ、七月九日、新院は重祚(ちょうそ)を企てた。天皇側では源義朝・義康(足利氏の祖)や平清盛参集、豊田郡大方郷の領主で関館主関次郎時貞・豊田四郎の女を母とする千葉常胤・佐竹昌義その子義宗や八田知家らは義朝に従った。
新院方には義朝の父為義や弟鎮西八郎為朝・平忠正らが参じた。為朝の内裏夜襲策は斥けられ、反対に義朝に白河殿を焼き打ちされた。関時貞は為朝に射られたが馬腹にかくれ、助かった。敗戦したので新院は讃岐に流され、頼長は戦傷死している。清盛は叔父を、義朝は父を殺すという人倫に背いた刑が行われた。