頼朝は佐竹秀義を撃つべく出発し、治承四年一一月四日、常陸国府(石岡)に着し、佐竹忠義を欺いて招き殺し、秀義の拠った金砂山をその一族義季の誘導によって落とした。
頼朝が国府に引きあげると、叔父志田先生(せんじょう)義広はたまたま令旨持参の源行家と共に戦勝を賀しに参じ面会している。
養和元年(一一八一)閏二月四日、清盛が騒乱憂悩のうちに死ぬと、平氏は後白河院に見はなされ、安徳天皇を奉じて西走した。
同閏二月二〇日、志田義広は、甥頼朝にとってかわろうとして常南を発し、まず下野に向かって足利又太郎忠綱(藤原系足利氏)を味方にした。鎌倉にいた関政平(関郡・豊田郡大方郷領主)は頼朝に暇乞いして帰ったが義広に投じた。頼朝はこれを見抜いている。下妻四郎清氏は源範頼(三河守蒲冠者)にくみした。小山朝政は偽って義広に応じ、野木宮(下野で古河と接す)に屯して包囲したが義広に射られた。たまたま鎌倉から馳せつけた弟宗政に助けられている。下河辺行平と弟政義は足利有綱と共に南方の高野や小手指(五霞)に陣し、範頼も小堤に馳せつけ、八田知家や下妻清氏らと共に東方の小堤にて義広らの退路を絶った。義広は遂に西走して義仲に投じ、忠綱はさらに九州に落ちのびた。下妻清氏とは別人の下妻広幹は義広方になったので敗戦後、下妻荘以外の領地を没収され、同時に本家の大掾氏も勢力が衰えている。関政平も一時領土を失った。
これに反し、戦勝側の朝光は結城郡、知家は筑波郡小田、政義は常陸の南郡に、それぞれ地頭職に補せられている。
後年の文治元年(一一八五)一一月、政義は義経と同じく河越重頼の女婿、すなわち縁の兄弟のために、義経の没落の際、政義も義父重頼もろとも所領を召放されている。政義の一子は志筑城の志筑(志津久)氏として残った。