義仲は寿永二年(一一八三)一〇月、平家を西走させてからさらに追討したが、備中水島にて平氏に破られ帰京し、京に馴れぬ部下があり、暴政もあったこととて、寿永三年(一一八四)二月、法皇から頼朝に、その追討の宣旨があった。そこで二弟範頼、義経を西上させ、元暦元年(一一八四)正月二〇日、義仲を宇治、勢多に破り粟津に戦死させた。今井兼平も殉じ、妾巴御前は勇戦して脱し、義広は伊勢に遁れたが追討されている。
義仲を滅ぼした範頼、義経は一の谷に平氏勢を攻める、範頼は生田の森にせまり、義経は鵯(ひよどり)越の逆落しをして、平氏の不意をつき海上に追い落としている。平敦盛の悲劇はこの時である。
豊田郡泥屋(ひぢや)(肘谷)(1)の住人泥屋四郎吉安と弟の五郎は平蔵人太夫業盛を討ち取っている(「源平盛衰記」)。
平氏は屋島に遁れて陣したが、しばらく頼朝の不興を蒙っていた義経は再び討つよう命ぜられると急に屋島を攻めて平氏を壇ノ浦に走らせた。
元暦二年(一一八五)三月二四日、源平最後の海戦となった。前半は潮流に乗った平氏が優勢であったが義経は、敵の船漕手を射らせた。後半は逆潮にのって全勝したが、哀れにも安徳幼帝は入水した。
これより前、文治元年(一一八五)正月二六日、源範頼は、結城朝光、下河辺行平らを従え、豊後国に渡った。周防国の住人らが八二艘の兵船や兵糧米を献じてくれたので渡海ができた。
行平は甲冑を売って渡海の用意をするほどの苦労をしたが、下総の下河辺荘にとどめて置いた郎従の矢作村(岩井)の矢作二郎、同七郎、大崎村(岩井)の鈴置(鈴木)平五らが、軍旅の粮を運搬し、途中まで出迎えている(「吾妻鏡」)。頼朝は帰った行平の献上物に対し他から貪ったかと疑ってなじったが、右のようなわけで余裕が出来たのがわかり戦功を賞し、播磨国守護職に任じている。かく留守の郷土の住民は主君の西征を案じていた。水海道辺の兵も、義経に属した豊田左衛門尉に従軍していたであろう。また、頼朝の勘気に触れ、一時帰国を止められたことには心を痛めたことであろう。
相馬師常は戦功によって、相馬のほか、猿島郡と豊田郡をいただく御教書(2)を賜っている。
文治元年からはいよいよ鎌倉幕府の地固めとなる守護、地頭が置かれることになった。
註
(1) 泥屋は「源平盛衰記」には常陸国としてあるが、豊田郡肘谷である
(2) 『守谷誌』には御教書に相馬・猿島・豊田三郡を賜ったとある