幕府の中央機関として、治承四年(一一八〇)、侍所が和田義盛を別当(長官)に、次いで、所司(次官)に梶原景時が任ぜられ、寿永三年(一一八四)、公文所(後に政所と改称)が大江広元を長官に、さらに同年、問注所が三善康信を執事として開かれている。これらは後に北條泰時執権の顧問として一一人の評定衆を置き、またその後、時頼の時代には引付衆をおいて機能を強化している。
他方、地方機関としては、京都守護・六波羅探題・鎮西奉行・奥州奉行等があった。これらは特殊な地域の治安維持のために置かれたもので、全国的には守護を置き、公私の領地に地頭を配置した。