下総国守護職は、文治二年(一一八六)に、千葉常胤が任ぜられた。従来、千葉氏は千葉介(ちばのすけ)といって実質上は下総の国守(長官)で、これからも世襲することになる。常陸には八田知家が守護職に補せられ、後には、小田を称している。また、支流の宍戸も守護職をついている。
守護は謀反、殺害、盗賊等の鎮定と大番催促などを勤めた。
地頭は地利を掌って年貢を収納し、公領の所当を国衙に、荘園の所当を領家に送り、そのうち反当五升の粮米を分納し、残を得分とすることができた。非常の時には守護の催促によって軍役を勤め、いざ鎌倉という時は、馬に鞭うって出かけた。平時は交替で京都大番役と鎌倉の番役についた。この重職の地頭には鎌倉の御家人が配置されたもので、こうして武家政治が確立されたのであった。そうして建久三年(一一九二)七月、源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府が正式に開かれたのである。
頼朝は、平氏追討の戦功ある武士であっても、自分の推挙によらないで、朝廷から任官された者に対しては厳しくのぞんでいる。これ武家政治の成否にかかわることになるからである。これに触れて譴責された東国武士は二三人にのぼる。その一人、豊田兵衛尉善基(義幹)は、水海道はじめ豊田の兵を率いて源義経の旗下に参じて従軍している。『吾妻鏡』巻四に、元暦二年(一一八五文治と改元)四月一五日、豊田氏に対し頼朝は「色ハ白ラカニシテ、顔ハ不覚気ナルモノ、只可レ候ニ、任官希有也、父ハ於二下総一度々有レ召ニ不参シテ、東国平ガレテ後参、不覚歟」と叱っている。
八田友家(知家)や小山兵衛尉朝政らも鎌倉に帰参することを止められている。両人は、「のろまな馬が道草を喰っているも同様だ」(1)と、たしなめきめつけられた。しかし名ある戦功の者共であるからやがて赦免されている。ただし弟義経だけは宥さないで追捕の手をゆるめていない。頼朝は豊田の人相までよくみている。父が緒戦に出なかったことにも不平を述べている。おそらく豊田義幹としては、本流の多気氏などの動きをみていたからであろう。
下河辺政義の失脚は前記したとおりである。
義経はこの年五月、平家の捕虜を連れて腰越まで来たが追い返された。一一月三日には西国へ落ちようとして風波に妨げられた。頼朝からうとんぜられたのは女性関係も多かったからで、推薦された河越頼重の娘のほかに、平時忠の女を娶ったり、妾静を同行したなどである。
範頼に従軍した相馬師常や下河辺行平、同政義は鎌倉に帰参したが、政義は前記のように失脚している。