以上をやや詳説すれば、平頼盛の松岡荘(豊田荘のうち)は平家没落と共に、豊田氏に地頭職が返ったことは次の経過で察しられる。
寛元四年(一二四六)一二月二九日、足利左馬権頭正義昇蓮は結城の上野入道日阿(朝光)と下総国松岡庄田下久安(石下のうち)両郷の所務条々を争論し、「去る文暦元年(一二三四)貢物所済の事は日阿当給人たるに依り、弁償さるべきの由、預所昇蓮訴申の間、日阿は拝領は文暦元年一二月一六日であるから全く彼年の貢物を徴収しなかったので弁済し難い」との旨、陳べたので、「日ごろその沙汰あり、今日件(くだん)の郷(田下久安)はもとの地頭(豊田氏)忠幹に弁済致さるべき由云々」と裁決があった。以上のように、文暦元年に豊田忠幹が地頭職であって、年末ゆえ、既に年貢は収納したに相違なく、したがって豊田氏が弁済すべきだと結城朝光はいっている。
豊田四郎義幹は豊田郡の大部分の郷村、すなわち、北は前記松岡荘より、南は水海道からさらに約二里を距てた鬼長村上小目村(筑波郡谷和原村)まで、東は小貝川を越えた台豊田(筑波郡上郷)、西は鬼怒川を境にした郷村の岡田郷と他の地頭と錯綜した郷村の大方郷と飯沼郷とを領有していた。大方郷は常陸の関郡を持つ関氏が北半を占め、南半は、平塚村(結城郡)の地頭諏訪氏と尾崎館を中心に、秋庭氏が数か村の地頭となっている。秋庭氏の地頭(大膳屋敷に堀と堤がある)になったことや、戦国期に一族が水海道城主となったことについては後記する。また飯沼郷古間木には、源頼光四天王の随一渡辺綱の後裔渡辺氏が城主となっている。
大輪(水海道市大輪町)には宗任神社文書によれば、二人の地頭があり、今の大輪城址が位置からみて上大輪の「堀之内」であったものである。羽生村地頭の羽生氏は、もと法蔵寺(弘経寺末寺文禄年開基)の境内を「堀之内」としていたが、鎌倉末期に、坂巻(横曽根南端)に安養寺を開基しているが室町前期には弘経寺を建てて、寺領として羽生村から飯沼村を分立している。同様に分村は横曽根村に報恩寺が建てられると報恩寺村が分立している。こうした分村名は宗任神社文書には未だない。が、それは当然である。
羽生氏は藤原姓で、古間木の渡辺氏は嵯峨源氏であるが、共に後に横曽根村に拠っているので系図など混同もみられる。しかし横曽根村には、その以前、鎌倉期に古谷氏(藤四郎)なる地頭がいたことが、親鸞より性信への書状によって知られる。
上幸嶋(猿島)荘の地頭には、下河辺氏の分流の領地の幸嶋氏が諸川館にあるも、後に関宿城(千葉県関宿)に拠り、永享の乱後は領地の行方郡行方八甲城に移っている。大輪田(三和町)堀の内の児矢野(小谷野)氏、逆井城(飯沼城)に逆井氏がある。三氏共に藤原秀郷流小山氏の分かれである。
下幸嶋荘の地頭には、富田村(岩井)堀之内に飯田氏があり、鎌倉末期に名越氏を迎えている(2)。弓田城主に松崎氏(3)が鎌倉の世に見える、室町時代から戦国期にかけては染谷氏が城主である。下幸嶋の南部には矢作村に富山氏・倉持氏、大口村に落合氏がある。落合彦兵衛は親鸞を迎えている。
相馬郡では相馬師常が守谷城主となり、元亨元年(一三二一)には奥州中村に相馬氏を分かっている。水海道南部(絹西)の郷村菅生の地頭あるいは相馬氏家臣として菅生越前がある。
北総の一郡にまたがる大きな地頭は相馬氏や豊田氏で他は概ね数か村、二~三か村の地頭である。大部分は本補地頭で、承久の変後、西国の没収荘園を宛がわれたような新補地頭はみうけられない。
豊田氏のほかに本補地頭職のうちに秋庭氏がある。開幕早々、武蔵国河越の御家人成田氏の分流、秋庭治政が豊田郡大方郷尾崎芦ケ谷等に地頭に取り立てられた(武州川越竜淵寺蔵文書)。
建久元年(一一九〇)三月二三日、不幸没し、芦ケ谷村の三夜塚(二三夜塚の略)に埋められた。その骨壺には、右年月日と秋庭治政の刻名がある(秋葉五郎衛氏所蔵)。
先に頼朝から勘気を蒙った義経の部将たちが許されて、文治五年(一一八九)七月一九日、奥州藤原泰衡征伐に鎌倉を発した。先陣畠山重忠は従兵のほかに人夫五〇人に征矢を、三〇人に鋤鍬を持参させ、そして実際に陣地を築くに努めさせている。
豊田兵衛尉は豊田兵を率いた。その中には水海道兵があるはずである。相馬師常は相馬兵を率いた。その中には水海道南部(絹西)の兵が含まれる。共に東海道軍の将千葉常胤に属している。結城氏や下河辺氏は源頼朝の本軍に属して進軍している。
その戦況と泰衡の滅亡については省略するが、軍功賞与の主なるは相馬氏が奥州の相馬郡と行方郡を、結城氏が白河郡を与えられた等である。かくのごとく地頭には飛び地を得てそこに有力な分家を出すものがある。
建久元年銘の骨壺(八千代町秋葉家所蔵)