新田義貞は幕府より六万貫の軍用金を僅かの期限内に納めるよう命ぜられ憤って、生品明神(上野国新田郡)に旗あげをした。この時、水海道(今井村)の松信氏が馳せ参じたと伝える「峰下天満宮縁起」が残っている。これは後記したい。義貞は、同年五月二二日、稲村ケ崎から進軍して、鎌倉の高時を始め八三〇余人を切腹させている。この幕府の滅亡は開幕一五〇年目であった。名越右馬之助は京都方面で戦死しているが、その一族三四人も割腹した。このような際には、名跡を残すために、一族は主家の近親を脱走させる例が多い。高時の子、時行も逃れている。名越右馬之助の近親とみられる右馬之丞は、下総国猿島郡富田村の地頭飯田監物をたより避難している。これは飯田氏の勧めによるともいう。「弘経寺記録」には名越右馬太郎時藤とあるが、正しくは名越太郎右馬允(丞)時藤であろう。右馬之丞は飯田氏の女と婚し、飯田姓を名乗り、正平九年(一三九四)九月、越後宇加治城にて宗良親王・新田義宗と戦って討死している。その嫡子基家は飯田家を継ぎ応永二年(一三九六)二月一日、五三歳で没し、次子良肇は主家北條氏や名越氏の菩提を弔うため応永二一年(一四一四)飯沼(水海道)に弘経寺を開山している。また、子孫のうちには名越姓に復し、神田山村(岩井)に移って宝珠山城に拠ったものもある。
鎌倉陥落の際、少年なりとも足利義詮が参戦したことは、父、高氏の野望によるもので、義貞の功を半ば奪うことになるのである。
当時、常総の八條院御領は大覚寺統皇室(後醍醐天皇統)にゆずられている。筑波表の多くの大覚寺御領の存在は、小田氏を始め宮方になった原因となった。同じく御領の下河辺荘は、下河辺氏から小山氏に荘司職が移り、さらに鎌倉管領が握り、天授六年(一三八〇)五月、管領足利氏満は小山氏に返還せず、執事上杉氏に譲ったことが、小山氏を宮方(南朝)に走らせた原因であった。なお、宮方には下妻氏や関氏や相馬氏がある。豊田氏も小田氏とことをともにしている。
豊田荘水海道の松信氏が、義貞の旗あげに応じたという天満宮(水海道)縁起を略記してみる(高原家蔵)。
下総国ノ高原雅楽頭ガ末孫、永江右馬頭秀宗、国次郎助秀虎、白旗ニ雲カヽリ四ツ目ノ青ヒ紋付ケタル
旗(同家ニ現存)ヲカヽゲ……中略……風見土佐守モ一族召連レ加ハリ、上野松岡ニ至ル、船田長門守ヲ以
テ義貞ニ目通リス、盃ヲ賜ハリリ一族老中十八人、臣トナル、義貞、松ハ十八公也ト御悦ビ永江右馬頭ニ
松信(松高)ト名ヲ玉フ
とある。また、同縁起には後世、活動する田村弾正長門守を、時代をかえりみず坂上田村麻呂の族として載せている。また、高原氏とは田村と早石(惣石)両家が合してからの改称といわれ、船田氏は後世水海道に土着し土井(喜右衛門家)氏と改めている(岩井・幸田篠塚家文書)。また、陸奥磐城(いわき)田村郡三春の田村氏は坂上田村麻呂の後裔であるが、南北朝末期に小山氏を援助したが敗戦し、領地の三分の一は結城(白河)氏のものとなっている。これは別記したい。