伝説によれば、道真は歿後の延喜八年(九〇八)雷となって藤原時平一派に祟り(2)延長元年(九二三)には延暦寺座主の前にもあらわれたという。すなわち雷神なる怨霊(3)であったが、それより脱して中世には文徳の神となり、画像なども福徳円満なる相を示している。神社蔵に室町末期作の御酒天神画像や、応永二二年二月の奥書のある北野天神縁起絵巻二巻などがある。
神酒天神画(県指定文化財大生郷天満宮蔵)
なお、水海道との関係については、戦国期の記事に取り上げることにする。
天正五年春、戦火にあって飯沼天満宮(大生郷天神)が焼失すると多賀谷はその復興を石塚大膳に命じたが着工は、翌年半ば過ぎである。
古河公方義氏は水海道方面の戦況にも留意していたので、焼けた天満宮についても配慮をしている。
「前略……其後様子、たよりが一切ないので心配していたが、昨廿二日、御書状をいただいた。多賀
谷領天満宮では御神体を取出したとのこと、大へん大切のことである。定めてやがて普請致すのだ
ろうが、時機が来たならば御縄張をしては如何か、何か変った事があったら、其の節は注進をする
がよい 謹言」
(天正五年)六月廿三日 義氏(花押)
一色宮内大輔殿
一色氏は天満宮の信者で鎌倉の荏柄(えがら)天神の分祀を幸手の天神城始め支城や要衝の領村に建てている。相馬郡小紋(文)開城、大木館(守谷町大木)、木野崎城(野田木ノ崎)、大福田(猿島郡五霞村)等に存在する。
故に公方は一色氏に再建を促したのである。尚義氏は多賀谷が初代公方成氏以来の大切な陪臣であるから、飯沼郷の領有を直ちに認めているのである。