大生郷天満宮

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延長七年(九二九)二月二五日、常陸の羽島(真壁郡椎尾)に、まず九州太宰府より遷した菅原道真の遺骨を埋めたが、これを道真の三男三郎景行と平良兼らが、大生郷に移した。石碑の文字(1)は今摩滅して読むことができないが一二六文字書かれていたという(第二編第五章第一節参照)。
 伝説によれば、道真は歿後の延喜八年(九〇八)雷となって藤原時平一派に祟り(2)延長元年(九二三)には延暦寺座主の前にもあらわれたという。すなわち雷神なる怨霊(3)であったが、それより脱して中世には文徳の神となり、画像なども福徳円満なる相を示している。神社蔵に室町末期作の御酒天神画像や、応永二二年二月の奥書のある北野天神縁起絵巻二巻などがある。
 

神酒天神画(県指定文化財大生郷天満宮蔵)

 なお、水海道との関係については、戦国期の記事に取り上げることにする。
 天正五年春、戦火にあって飯沼天満宮(大生郷天神)が焼失すると多賀谷はその復興を石塚大膳に命じたが着工は、翌年半ば過ぎである。
 古河公方義氏は水海道方面の戦況にも留意していたので、焼けた天満宮についても配慮をしている。
 
   「前略……其後様子、たよりが一切ないので心配していたが、昨廿二日、御書状をいただいた。多賀
    谷領天満宮では御神体を取出したとのこと、大へん大切のことである。定めてやがて普請致すのだ
    ろうが、時機が来たならば御縄張をしては如何か、何か変った事があったら、其の節は注進をする
    がよい 謹言」
   (天正五年)六月廿三日 義氏(花押)
     一色宮内大輔殿
 
 一色氏は天満宮の信者で鎌倉の荏柄(えがら)天神の分祀を幸手の天神城始め支城や要衝の領村に建てている。相馬郡小紋(文)開城、大木館(守谷町大木)、木野崎城(野田木ノ崎)、大福田(猿島郡五霞村)等に存在する。
 故に公方は一色氏に再建を促したのである。尚義氏は多賀谷が初代公方成氏以来の大切な陪臣であるから、飯沼郷の領有を直ちに認めているのである。