「縁起記」に「宗任、肥前浦の流謫地に没すと松本七郎秀則の枕頭に立ち、我が青龍兜を奉じて南に往けと、松本七郎、息八郎以下旧臣二四名、南下の帰途、二荒山(日光山)より漁船にて鬼怒川を下り、滑田に着き、松岡荘「黒窠郷」(赤須郷ともいう)に上るに、また啓示あって宗任神社を建てて祀る。天仁元年(一一〇八)以来黒窠郷を、宗任にちなみ宗道と改称、豊田三三郷の総社として豊田城主四郎将基に遇せらる」とある。
註
(1) 刻文の板碑は大生郷天神から東北の方に羽鳥から迎えられた位置に、第一の鳥居があり、その側に
もと存在した。俗に刀研ぎ石といわれ磨滅していたが、飯島利七が読解し、今はさらに磨滅し不明で
ある
『大生郷天満宮由来記』(菅公顕彰会刊昭和三〇年)
『大生郷天満宮由緒記』(飯島利七著大正九年)
(2) 延喜九年(九〇九)時平の死
延喜二三年(九二三)保明親王の死
延長三年(九二五)皇太子の死
(3) 延長八年(九三〇)清涼殿落雷
(4) 「香取神宮文書」は「千葉県史料中世編」「茨城県史料中世編」を参照転載
(5) 鎌倉将軍家御教書 香取社造営による役注文