報恩寺と性信

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報恩寺は弘法大師創立の伝承がある、摩耶山大楽寺といった真言宗であったというが、空海自らは東国に足跡がない。この真言宗は性信によって浄土真宗に改宗された。
 性信(しょうしん)は鹿島神宮の神人で、姓は大中臣である。元久二年(一二〇五)一八歳の時、熊野権現に詣でた帰途、東山吉水にて剃髪し法然に信心のほどを認められ、親鸞の弟子に推された。建保二年(一二一四)性信は豊田庄横曽根の大高山に龍宮寺を建てた。親鸞が貞永元年(一二三二)東国を立って西国へ帰る途中、箱根で随行の性信に、関東に止まって弘法するよう勧められたので、性信は戻って飯沼縁辺の今の地域に報恩寺を建てている。また、前弓田城主松崎筑前守勝久(戒名、法得院)の開基で佐川野(栃木県下都賀郡野木町)に法得寺を開山している。
 

性信坐像(下総報恩寺蔵)

 報恩寺を建てて後、飯沼の中に島のながめを欲したところ、ある夜、島があらわれ、雁が宿ったので雁島と呼んだ。これは沼中に真菰や藻が雁がくるころ浮いて出来るのであった。去れば消えている。
 また飯沼天神と交流して神仏相互の信仰をもりあげていて、神主には、御手洗池の鯉を献ぜさせ、肉食を自ら示している。料理をしたその井戸は今もって門前(もと境内)の藤沼家に存する。今、献鯉は大生郷から浅草報恩寺に届けられ、毎年正月一二日の講に爼式が行われている。また、寺からは大生郷天神に鏡餅を供する習わしが続いた。後世であるが、次の文はその経過を物語っている。
 
   為取替議定之事(大生郷中野家蔵文書)
   下総国飯沼天満宮者当山開基性信上人往昔不思議之因縁ニ依而六百年来相続年々不闕ニ御鏡餅相備鯉魚
   被相贈候事全以不浅次第分明ニ御座候然ル所先年少々意趣有之不熟之儀御座候処今般熟談ニ相成候上ハ
   往古仕来之通長ク御鏡餅相備鯉魚被相贈相互ニ音信候ヘバ神仏之意ニ相叶末々迄法燈退転有之間敷永久
   之可亀鑑旨為取替御議定仍而如件
    嘉永(三)戌年三月 江戸浅草坂東報恩寺(印)
                   達俊(花押)
     大生寺殿