光明寺(真宗大谷派)は下妻西木町にあり、開山は明空で承久二年(一二二〇)三月中旬に建った。三浦の新井城主三浦荒次郎義忠は建保五年(一二一七)和田義盛の乱で落人となり奥州へ赴くの途、下妻瀬ケ見ノ原、一説には八千代町新地にあった現成院に寄った時、夢に僧侶現れ、「小島に高僧あり済度を受けよ」といわれた。落人の身故無常を感じ仏法修行を続けていたこととて小島に参るとそれは親鸞であった。直ちに弟子となり、法名を明空といただき建寺したのであった。ここに師手植えの柊が聳えている。
註
(1) 恵信尼の消息文は大正一〇年(一九二一)京都本願寺にて発見され、恵信尼の下妻在住もはっきりし
ている。大谷嬉子著「恵信尼さま」に詳しい
(2) 俗縁とは、幸實の姉に当たる玉日との関係をいう。すると玉日なるものも恵信尼同様、親鸞の妻の
ようである
(3) 幸貫ともあるが、父が兼實であるから幸實がよいと思う