安養寺は[元弘三年/正慶二年](一三三三)二月、横曽根城主羽生大和守氏経が開基となり深蓮社信誉上人が開山している。初め坂巻(水海道市豊岡町)に建てられ氏経の法号文秀院によって文秀院と称したが、応永四年(一三九七)に至り嘆誉上人(良肇)が寄寓し、安養寺と改称した。慶長七年(一六〇二)には清雲院なる院号を改め加えて清雲院安養寺と称した。このころ寺院は、今の安養寺の東方鬼怒川の中流に坂巻より移されてあったが、寛文元年(一六六一)古河藩の支城下妻藩主で水海道地頭である土井能登守利益と同大輪城主土井利直の兄弟が河川改修をして、安養寺辺より江島まで直流になった時、現境内に移されたものである。次の鐘名は寛文元年(一六六一)中興の住持宗席が移転記念のためだろうか、鐘を再鋳したとある。さらに元禄一六年(一七〇三)にも再々鋳したとあるが、この鐘は第二次大戦中供出されている。
安養寺鐘頌
南無阿弥陀仏 飯沼顕誉祐天
頌云
願此鐘声超法界鉄囲幽闇悉皆聞
三塗□□生安養一切衆生成正覚
奉再鋳下総州岡田郡横曽根村無量山
清雲院安養寺洪鐘一口
右古鐘者当寺開基清雲院之寄附而正慶年間之建立也寛文元年辛丑中興正誉宗席上人代再鋳元禄十六年
癸未廿一世応誉林察上人再々鋳于時本山卅世顕誉祐天上人慶讃供養矣自爾星序経年破頽壊損有年
…中略…
今歳文政六年癸子四月廿六日鋳功成矣
同年十月九日供養畢
右の鐘銘に開基清雲院は正慶年間建立とあり、清雲院は文秀院の改称で、すなわち羽生氏経である。氏経は羽生村や横曽根村の地頭であり、始め羽生氏の館は、その名のように羽生町の法蔵寺附近がそれに当たっていたもののようで堀の内遺構の堀土堤が寺の南側にあったといわれている。[元弘三年/正慶二年](一三三三)以前に横曽根に移ったことは文秀院の建設でわかる。
なお正慶なる年号は北朝のものであるが、他の板碑の年号もそれで、当地方が北朝に属していたことを示すものである。