逆井郷地頭逆井氏、開基となり、聖冏を開山に招いた浄土宗の寺院である。聖冏は永和元年あるいは三年(一三七五又は一三七七)二月から永徳三年(一三八三)の間に逆井氏に開山を依頼された。そのころは聖冏がいったん瓜連に帰って、師了実に謁した永和四年より早いことになっている。聖冏は永徳三年から横曽根の法性寺にあって横曽根談所を開いていた。
逆井氏は小山氏の支流であるから結城氏とも同族で武家方として籠ったが、興国元年(一三四〇)北畠顕国や相馬忠重に飯沼城(後に逆井城)を攻め落とされている。建武二年(一三三五)結城朝裕は常陸の高岡小田の法雲寺の復庵宗己を招いて華蔵寺(6)を開山している。城在の逆井郷青鳥(おゝとり)(大鳥大通)村は法雲寺領になってしまった。
逆井氏は永享一二年(一四四〇)鎌倉公方持氏の遺児らを奉じて結城籠城をしたが、落ちて退散した。遺児足利成氏が公方になると、逆井常宗は逆井に復帰した。その子孫の常繁は古河公方の家臣なので、後北條方の大道寺駿河守直宗(資親とも政繁とも記される)に天文五年(一五三六)三月三日、逆井城は攻め落とされ一九歳にして戦死し、奥方は城池に入水して殉じた。寺名はこれから常繁寺と改められ、夫妻の墓碑はこの菩提寺に存している。なお常繁寺境内に白旗流の祖、良暁の碑のあることは、その三代目の後継である聖冏の開山の寺であるゆえで敬慕を示すものである。