開基は横曽根城主羽生彦八郎藤原経貞、羽生修理亮浄貞、同左京亮貞胤、同式部丞広貞、羽生城主渡辺豊前守吉定(8)等である。
良肇は高聲寺のある岩井に近い富田に[正平一四年/延文四年](一二五九)四月生まれた。父は鎌倉幕府滅亡の際、知己の富田の地頭飯田監物重信を頼って来た名越右馬允の子の右馬太郎時藤で、監物の女を娶った。北條高時に殉じて名越一族三四人自刃したが、一族は名跡を残すためか飯田氏は右馬允を招いている。右馬允は世をはばかってか一時飯田氏を名乗ったが後には名越に復し[正平一〇年/文和四年](一三五五)八月、新田義宗が宗良親王を奉じて信濃に挙兵した際、赴いて戦死している。一説には前年(一三五四)宗良親王義宗の宇加治城攻めに越後に至って戦死したともいう。
飯沼弘経寺領安堵状
良肇は始め浄土真宗報恩寺に入門したが、後常陸瓜連の常福寺開山了実について学び改宗した。後に青柳(取手市青柳)本願寺にて聖冏(横曽根法性寺開山)の教化をうけ、帰郷して報恩寺に来たが、その末寺能満寺(明星庵虚空蔵)に住した。[弘和三年/永徳三年](一三八三)小田原に伝肇寺を創め、応永四年(一三九七)より横曽根安養寺に寄寓していたが、同二一年飯沼(水海道市豊岡町)に弘経寺を開山した。安養寺在居の関係で、その檀徒のうち六人は慕って弘経寺の檀徒となり、後も上座を占めていた。
富田から弟作兵衛は飯沼に移り住み寺領二五貫文の経営に当たり、飯田本家として今日に及び、富田の勘兵衛も三坂(水海道市)に移って共に開山忌には世話役となっている。
この寺の寿亀山なる山号の伝説は、亀をたばかって始め一〇年、次に一〇〇〇年間、この台地を亀から借用したとあり、亀に年越を知られないために、門前百姓は器物を乱打し騒音をかなでる習慣があった。とにかく、中世、鎌倉光明寺、瓜連常福寺と並んだ檀林であったことは、仏教文化の一大中心であったことを物語るものである。
長禄三年(一四五九)、弘経寺に宗運という一遊僧が来て法を求めたので、師良暁(りょうぎょう)(了暁)が招じた。宗運は特に聡明で才学に秀でた。かつて土塔(五霞村)無量寺で浄土宗を修学し名を良正といったが、今宗運と改めた。始め人々は宗運を知らなかった。五月一二日の開山忌には毎年、前日から当日まで日中法要を執行し深く顕密の法務を修める。大衆ははなはだ歓喜し声高らかに歌い舞い踊った。あるいは拍手大笑し耳目を驚かすほどであった。しかしこれは例式なので郷の人々も怪しまず住職も止めないで機嫌がよかった。その時宗運は、雅やかに長歌曲妙に舞って人々を驚喜させた。衆皆座して舞姿を鑑賞した。それで忌月に臨むごとに宗運に師事して歌舞を習って興にのり、時に大衆と共に踊りあかした。宗運は身心ともに疲れ果て、睡眠一二時(とき)(二四時間)遂に前後を失した。在山一八年で辞職し、去って常州に行き小貝川に投身自殺した。いま貉淵(むじな)(筑波郡谷和原村)といっている所である。末寺の常円寺から東へ一〇町の地である。文明一〇年(一四七八)六月三日のことであった。現に(当時)山方丈の東に宗運住所の遺跡と大槻木墳標の記がある。
伝説化しては、大衆が宗運に阿弥陀如来を拝ませてくれと頼んだので「南無阿弥陀仏」と唱えないことを約束させ、境内の大杉に登り燦然たる如来を来迎させたところ、大衆が思わず「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えた。するとたちまち宗運は貉の姿となって墜ち、東方へ走り小貝川(当時は鬼怒川と同流)の淵に投身自殺したという。大衆は遺骸を迎えて境内に祀り、以後この杉を来迎杉、淵を貉淵といっている。
明応四年(一四九五)一二月二日、飯沼弘経寺曜誉本山知恩院へ参り、そして知恩院の周誉も倶に了暁のもとに学び弘経寺が出世した次第を要約してみる(10)。
明応四年十一月廿八日 この知恩院より広橋の局を以て申上げる
関東の下総の遠い辺の在村の由 お住持がよく堪えるかどうかの御尊意には及ばないかも知れぬが 当
知恩院として申し上げたところ、御免の由仰せ下された。翌晩日(十一月廿九日)には 勅の口上とみこ
とのりを頂載できるから香衣(黄ばみのうす赤色の衣)を着られてお出の事
十二月二日に同道し参内しましたところ 前例としての御対面は 朝御膳以後なのであるが 朝のお膳
をすまさず早朝の御対面であって この次第は前代未聞の事であるから記しておくことにする。
東山大谷知恩院廿一代周誉在判
明応四年十二月十二日
右は後土御門天皇の御代に弘経寺の第三世曜誉が本山知恩院住持の案内で参内拝謁を賜ったが、天皇御朝食前面謁という先例にない待遇をうけたとの記事である。
大永三年(一五二三)閏三月二十三日 飯沼弘経寺一誉 本山知恩寺へ参る(11)
一、弘経寺第四世一誉上人 参内記録之写
関東下総弘経寺一誉上人出世之事
右 一誉上人は 元九州肥前国中野大蔵寺の住持となったが境をわかるるの教誡に随って 九州の郷里
を離れて仏法は東土に及ぶとの旧慣に任せて、関東の下総の遠国に到り 幾年も教学し 徳行を累ね
その上弘経寺補任の任命を受けて開山四代の正脉を継がる。実に縁が熟し宿願が開いたものか、そして
元祖(法然)の真影をおがむために京の東山知恩寺に詣でて、沢山の報謝を捧げ特に厚い誠心をつくした。
上京した便宜に出世したいとの懇望を成された。よって大永三年閏三月十九日、この院より広橋局を経
て奏聞をした処、勅許があり直ぐにみことのりを下され、同廿二日、香衣に着替して参内を遂げた。宮
殿を出る際当 番奏者を以て遠い下総より参上は奇特に思召すと仰せられた。これは前代未聞の過ぎた
るお言葉である。やがて広橋局に同道され対面して愚老(尊蓮)は 前住曜誉上人の参内には、お膳の済
まない早期の御対面で前代未聞であったと周誉上人が記留められていると申上げた処 御局様は例式の
御対面は御膳後なのだが、又早く参内したので御膳をさしおいて謁されたのは師匠(曜誉)参内の先例と
同じである事 仏のお蔭の至りでこれ以上ない由仰せられた。仏祖へ誠心を捧げ先師へ納受を垂れます
からである。穴賢々々
大永三癸未年閏三月廿二日
東山知恩院 尊蓮社超誉花押
これは弘経寺第三世が参内されてから二九年後、後柏原天皇に第四世一誉が謁見された際、第三世の前例と同じに御朝食前に対面されたこと、その上退出の際奏者を通じてお言葉を賜ったものも前代未聞だと有難がり、これも御仏への誠を尽くすお蔭だとの超誉の記留である。
天文七年(一五三八)三月二五日、後奈良天皇の御代、第五代鎮誉魯耤の時、弘経寺は勅願所となり栄誉の極に達した。
天文六年より天文七年春までの大旱に祈祷して雷雨を三日間降らせて、勅願所となる。この後毎年節分の夜、百万遍初夜法要を終わって参詣の男女が群参した。時に一山の大衆が大鐘喚鐘、鉢鼓を同時に鳴らし参詣諸人は板椽、雨戸を半時余りも打ち鳴らし、声を励まし念仏回向十念を終わると、祈祷札を常総二州男女に授ける。もしこの札を取獲すると、その年は疫癘(疫病)にかからないということで遠近さまざまの村から老若男女が群参したものである。
知恩院末寺寿亀山弘経寺之事、為二嘆誉上人開山精舎一之由 被二聞召一訖(おわんぬ)然従二本寺一勅額勅願
所之儀 被二執申一之間宜レ奉レ祈二宝祚長久国家安全一者 天気如レ件 悉レ之以状
天文七年三月廿五日 左中将(花押)
弘経寺住持上人御房
大道寺駿河守家から飯沼弘経寺に入門した者がある。天文五年三月三日、大道寺は逆井城(猿島)を攻めて常繁夫妻をほろぼしている。聖冏が開山した寺名は、後で常繁寺と改められた。天文七年は前記のように弘経寺は勅願所となり檀林であり学問の中心である。殊に大道寺政繁の甥とも、その母の甥ともいわれる後の感誉存貞が学んでいる。天文の末頃存貞は政繁の母(蓮馨大師)に帰依され武州平方村に宝池院(後の蓮馨院)を建てている。永禄元年(一五五八)には政繁は存貞を招じて領内川越に建立(見立)寺を開いている。存貞は永禄六年には芝の増上寺に転任して同九年は見立寺を兼帯している。
弘経寺で学習した存貞はかのように栄達したが、弘経寺はこのころ衰退の気運があらわれ、天文二三年(一五五四)六月七日、第七世見誉が転出して武州せんこく寺を嗣ぐようになったのは残念であると左に述べている。
弘経寺住持退転故 見誉上人[飯沼第/七世也]元奉書之写[注六]下総国弘経寺住持退転の由 聞召
候 然るへからす候 武蔵国せんこく寺見誉上人かの寺相続候ように仰せ致され候 相異なく候はゞ
心痛に存しめし候へき 尚々それよりかたく申下され候へく候由 とて候
かしく
右御文の表書に知恩院へまいる
又 小口書に天文廿三年六月七日
念仏宗が文明一〇年(一四七九)三月二六日、宮中に盛んであり、大永三年(一五二三)弘経寺一誉が宮中で待遇を受けたように公家にも優遇されている。
しかし日蓮宗も流行し、文亀元年(一五〇一)には、細川正元の企てで念仏宗との間に宗論が行われた。これは互いに自宗の勝ちを主張している。しかし誰か烏の雌雄を知らんやであった。天正七年(一五七九)織田信長も両宗の宗論をさせたが、この時浄土宗を代表したのが、弘経寺に学んだ貞安であった。これ安土の宗論である。この論に信長は貞安に軍配をあげて日蓮宗を圧した。この貞安は弘経寺の所化の時、中妻の霊仙寺を天台宗から浄土宗に改めている。