結城弘経寺

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第二一世弁誉長厳が結城弘経寺の開基由来を作成したのは元禄八年(一六九五)である(12)。飯沼弘経寺との関連が深い。
 
   飯沼寿亀山弘経寺 第九代擅誉上人(存把)(13)が住世の時、小田原の北條氏直が出張して 陣場要害に
   為し 弘経寺に放火す、之により檀誉上人は 勅願所勅額の綸旨貉聖教などの什物を自ら荷担して下妻
   の郷に逃去る下妻の領主多賀谷修理大夫重経は 従来壇契があって帰依浅くない故に 彼地(下妻)に新
   に弘経寺を建立し、師擅誉上人を崇嚮すること今迄の日に異る[(今下妻大町円福寺金輪寺/は弘経寺古
   跡である)]或る時重経の家臣浜名因幡 重罪を犯し死罪免れ難く師に投じて最期の十念を請い自害せ
   んと欲す師の曰く 且く待て吾汝の為に命を続かせようと大夫重経に対して命乞をす、頻に大夫曰く
   師の仁慈至って深し 且つ吾師の開誨を蒙る日尚し 何ぞ此□を背ん 師の為 死刑を弛へて追放すべ
   し 其れ訝ることなかれと、師喜で浜名を出す 大夫忽ち約に反して誅伐す、師は重経の食言を大に憤
   り下妻を立退き、当所中嶋に来り小庵を結んで居す、徳孤ならず、郷民敬伏一村偏く念仏門(浄土宗)に
   帰す 今に至るまで弘経寺草創の檀那と号す、結城黄門(中納言)秀康公 師して洪徳を嚮慕して当寺を
   建立して師を請待して開山初祖と為す、然りと雖も師自らに開山の位に居らず 飯沼開山嘆誉上人以来
   八代の無縫塔を当山に移し 勅願所勅額の綸旨貉聖教等の重宝を納め、絶えたる風を継ぎ、廃する跡を
   継ぎ 無尽の法燈を挑す、講席今に至って断絶なし、文禄三年十月十九日 秀康公の息女早世す時に四
   歳師を以て焼香導師と為す 法名松樹院殿梅心芳薫大童女(元禄六癸酉年百年忌に当る)秀康公寺領五十
   石黒印を以て寄附す。寛永十三年 御朱印改之節当山十三世業誉上人 此年九月より翌年二月に及び江
   戸城に相詰む。訴訟これ在るに、御朱印下さる。委細は訴訟の記録にあり師晩年に及び、瓜連常福寺に
   移住し 大に法幢を張る。化縁既に尽て 慶長九甲辰年十月廿一日 世寿七十歳にして、衆を集め別を
   告げ跏跌して長逝す(常福寺十七世也)当山に於て遷化年月日忌日分明せざる故 開山忌執行することな
   し。然るに当寺十九代寂誉是真和尚は深く此事を嘆き、終に瓜連常福寺に於て 年月諱日を正し、徒衆
   を催し諸檀を集め、始めて開山忌を執行す 翌年十月廿一日開山忌竟(おわ)るの時、江戸幕府より 飯
   沼移住の台命を伝う 鎌倉光明寺に移住し 二十一日上意を蒙り遷化・亦是二十一日なり、尤も寄と為
   に足れる者か
    当時開基之濫觴 当所下妻古老の所伝事実に正し編修さる者なり
     当山廿一世成蓮社弁誉長巌在判
 
 飯沼弘経寺が北條氏の戦火にあい、住持が下妻に退転、重経に欺かれて中島村に移り、結城に弘経寺を建て、後継住持が常福寺に召され、一九代は飯沼弘経寺や鎌倉光明寺に移る等名刹を廻っていることが記されている。
 「当山代々移転記」に飯沼弘経寺の第九代存把が天正五年、兵火により下妻円福寺に逃れさらに絹川中島村に移り、文禄五年(一五九六)結城秀康に結城に招かれて建てたとある。関東十八檀林のうちにある。また、大鹿(取手市)弘経寺は飯沼弘経寺の隠居寺で、中興は土浦に高翁寺を開いた真我祖白(宣誉)である。清照山厳興院高翁寺は飯沼弘経寺宣誉祖白上人の開山である(『土浦市史』)。
 この浄土宗寺院の開基は、小田氏の一族、信太因幡守源貞信で、土浦(中央二丁目)に館を構えていたが仏門に入り、いったんこの館を出ていたが帰住して館を精舎に改め、弘経寺の宣誉を招いて開山とした。貞信は法名を厳興院殿高翁浄喜大居士、夫人は結城秀康の伯母で法号を清照院殿春和妙花大姉と称した。この両法名を合わせて寺院名としたのである。