藤田山高聲寺の開山は、水海道に報国寺を開いた鎌倉光明寺一世良忠の高弟性真である。
性真は唱阿と称し、承久三年(一二二一)の乱に、院宣を読み得た唯一の坂東武士、藤田(花園)城主藤田小三郎能国、後の民部丞利貞(17)の子である。
性真は始めは比叡山で天台の教えを学んだが、後に光明寺の良忠について浄土宗に入門した。正応元年(一二八八)八月、上岩井に高聲寺を開山し浄土宗を弘め藤田派と称された。
良忠の水海道建立の報国寺よりわずか一〇年後に開山したことは、北総の浄土宗勃興の基となった。
次いで性真の同族、武州埼玉郡藤田小太郎刑部行重の子、持阿良心は、岩井に来て性真の弟子となり、下総国葛飾郡小福田村(五霞村)土塔に無量寿寺を建てて浄土宗を高揚した。持阿は浄土教義と五行相勝説を習合(18)して一派を興した。これを土塔派という。教説秘法の巻物は土塔の中に奉納してあるが築かれた土塔塚は南面が崩されている。巻物写は幸い高聲寺に現存している。持阿自らの開いた末寺に、専修寺(境町伏木)、西光寺(境町西泉田)正定寺(総和町下大野)、了正寺(古河市)等がある。高聲寺の末寺は関東から東北にわたり、最盛期には三〇〇近くに及んだという。
正和二年(一三一三)比叡山で内訌が起こり山徒の神輿が入洛する騒ぎが起こった。幕府では同年末藤田の族、藤田四郎左衛門行盛父子を先隊としてそれを防がせている。しかし父子は流罪となった。
註
(1) 真言宗徒の板碑について、富村登氏著「水海道郷土史談前編」に詳細に説明されているが、この板
碑の他所より転入されたものであることを富村氏自身も後に認めて居られた
(2) 「飯沼弘経寺文書」に拠る
(3) 応永二三年一一月上杉氏憲が足利持氏に背いた時、千葉氏胤、満胤、兼胤ら二〇〇〇余、鎌倉の持
氏を攻めている。氏胤の子が後に聖聡となる
(4) 応永二二年喜んで横曽根から武蔵へ赴くとあるが、禅秀の乱の余波をうけたとすれば同二三年、し
かも聖冏は常福寺からの脱出との聖聡の横曽根談所学頭宛の書状がある
(5) 聖聡書状写は瓜連常福寺所蔵『茨城県史中世編Ⅱ』所収
(6) 結城塔ノ下華厳寺には正安二年(一三〇二)四月一五日の大板碑があり、建武二年より三三年ほど古
い大輪田(三和町新和田)には、嘉元元年(一三〇三)児矢野氏、開基の日蓮宗福城寺がある。ここに大
板碑の上半がこわされて移しおかれたが、昭和の半ばごろ発見されて華厳寺に戻されている
(7) 父名越右馬允は正平一〇年(一三五五)四月宗良親王と越後に戦った時戦死している。良肇の生年に
疑問がある。良肇は正平一四年(一三五九)生まれで永享一〇年(一四三八)五月一二日、七九歳死亡
(8) 渡辺吉定は渡辺氏系図には羽生吉定とある。その子孫羽生式部は後世天正八年谷田部の戦に多賀谷
淡路戦死後、平井手や渡辺越前と共に谷田部を守っている
(9) 名越氏は北条氏の分かれで元弘元年(一三三一)八月二七日後醍醐天皇が笠置山に座せられると、足
利尊氏と共に幕軍を率いて向かっている。後戦死している。右馬允の子良肇が北条氏一族と名越一族
の冥福を祈るため出家して弘経寺を建てたのもこうした因縁からであろう
(10) 原文は漢文第三世曜誉、知恩院参内記写は弘経寺文書『結城市史古代中世史料編』所収
(11) 一誉知恩院参内記写、弘経寺文書『結城市史古代中世史料編』所収
(12) 『飯沼弘経寺史』では玄誉善慶天機を第九世としていう
(13) 結城弘経寺開基由来書『結城市史古代中世史料編』所収 原漢文
(14) 宗任神社蔵古文書には中妻も霊仙寺もみえるが、建暦三年の記録であるから霊仙寺はやはりその初
年の建立であろう
(15) この坂手極楽寺の戦火を結城合戦とするには、地理的に不合理である
(16) 良暁は二人あり、良忠の弟子で光明寺第二代と、弘経寺第二代の住職である。ここの良暁は弘経寺
住職である
(17) 高聲寺所蔵系図には利貞の名がみえる。当時は改名が多いからだろう
(18) 浄土教義藤田派と五行相勝説の習合は筆者今井が高聲寺蔵教説秘法を見ての意見である