天台宗安楽寺

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安楽寺は、菅原道真が太宰府にて亡くなると子の常陸介三郎景行らが大生郷天満宮を建てたことは別記した。太宰府天満宮の別当寺安楽寺にならって、大輪寺古寺家(ふるじけ)(古寺坊)に安楽寺を建てたという伝承がある。ところが、天正四年一〇月二九日天神山城、大生郷城が下妻の多賀谷氏のため焼き打ちされた時、その飛び火で寺も類焼したといわれている。
 その時の戦に、北條時氏(義時の孫西福と称す)建立の浄土真宗西蓮寺は下妻勢に追われて、蒼惶とし中山村(水海道市)に逃れた。その跡に安楽寺は移ったのである。ゆえに寺院には北條氏の紋章「三つ鱗」が用いられていた。なお、恵信僧都作の阿弥陀画像が残っているが、これは西蓮寺僧が逃亡の際、置き忘れたものである。安楽寺は俗に満蔵(みてぐら)の元三大師といわれ正月三日に参詣者が群れをなして集まるが、比叡山座主良源が大師号を得、朱雀天皇や藤原忠平も帰依し寛和元年(九八五)正月三日に寂していることからの因縁である。
 逢善寺所蔵の文書(1)に、
 
   同寺第十五代定珎法印本国下野小山之住、下妻普門寺定海之弟分ナリツルガ 十八才(天文十九年一五
   五〇)時、定海葬シ玉テ後先師雄海、飯沼安楽寺ニ住之時分ヨリ法恩ヲ蒙リ廿三ノ年(弘治元年一五五
   五)於逢善寺七度 伝受并旦那流ノ初重等相承シ、廿五ノ年ヨリ土岐大膳治英(龍ケ崎城主)ニ師柦ノ契
   約ヲナシ、廿六ノ年、黒子千妙寺亮舜法印ヨリ恵心一流ノ相承印可、惣付属マテ受之 廿七ノ
   年永禄三庚申二月登山(叡山ニ登ル)…中略…三十七ノ年、(元亀元年一五七〇)治英并寺門中ヨリ召請ノ
   間 六月十八日山門(叡山)ヲ立テ 七月八日着寺シ 廿二日二学頭職ヲ領掌シ 八月十九日旦那(治英)
   ニ対面…中略…同年霜月廿日ヨリ馴馬(龍ケ崎) ニヰテ 塔ノ供養トシテ三日伝法灌頂執行了(下略)
 
 水海道満蔵安楽寺に二〇歳前後に学習した定珎は、右文のような天台宗の高僧となり、遂に名刹逢善寺の第一五代住職となり、天正七年(一五七九)からは、すべての寺院よりの招請を辞している。同一八年(一五八〇)豊臣秀吉が後北篠氏を滅ぼすに当たって諸寺、諸山没落につれ、逢善寺も退職すべきところ、江戸崎城へ会津の芦名義広(佐竹義重の子盛重)が入った(2)。もと龍ケ崎の土岐勢とは敵対した間柄であったが芦名氏は、この逢善寺を無事存続させ、自らは同じく浄土宗大念寺を開基している。
 

市町村別寺院分布図(今瀬文也著『茨城の寺1』)