妙音寺(岩井市神田山)は、鎌倉末期に、長伽(あるいは慶現)により開山されている。開山は嘉元二年(一三〇四)に生まれ、[永和二年/天授二年](一三七六)七三歳で寂している。同寺境内に残る永和二年の板碑はその供養碑である。
その後、第三代慶賢が中興し、高野山金剛三昧院弘尊より本末の契約を許され、大永四年(一五二四)一〇月一八日寂している。
妙音寺の末寺は下幸島(岩井)に六か寺、水海道に宝蔵院(水海道市)成就院(水海道市栄町)蓮華院(水海道市天満町大師山)福聚院(水海道市森下町観音)あり、南隣の細代には金剛院があった。
上の寺、延命院に対して、妙音寺は下の寺という。これは位置からの通称である。延命院開山の伝承は古いが、境内の東部が堀之内の塁濠があるのを見れば、妙音寺と同じころの建立と思われる。このように真言宗両寺が、神田山(岩井)にあるのにかかわらず水海道には妙音寺末寺の存在しかみられないことは、水海道は浄土宗、あるいは浄土真宗の力が盛んであったからであろう。そして末寺も明治維新の排仏で姿を消している。
註
(1) 小野(稲敷郡新利根村)の天台宗逢善寺は天長三年(八二六)常陸国司で柳に飛びつく蛙を見て発奮し
たという小野篁(たかむら)が逢善庵を営んだことに始まる
(2) 芦名修理大夫盛重は、佐竹義重の子で天正一一年江戸崎城に攻め寄せたが、栗林義長に属した水海
道絹西勢横瀬主膳、猿島勢の横張、名越らが江戸崎城に救援に来たので敗退したことがある
天正一八年(一五九〇)一〇月、芦名氏は源誉慶岩を招いて江戸崎に大念寺を開いた。関東十八壇林の
一である。源誉は九州生まれで元亀年間入京し後、武蔵に入り、浄土宗の僧ではあるが、下野那須の
雲厳寺に至って禅を修めて、芦名氏の帰依を得た