板碑

246 ~ 250 / 517ページ
建碑の期は鎌倉初期から慶長前期までである。建碑は、地頭、郷士、寺院開山等が主で、民衆には及ばなかったようであるが大塚戸町遠久保墓地に結衆の造立した十三仏板碑がみられる。性格は供養塔、供養兼墓碑、墓碑であった。大型は立って建てられたことは、武州磯川村慈光寺にみえる。石造の台付である。小型も下部が尖っていることは建てるを目的としたのだろうが、埋没して遺骸の上にのっているものが多い。
 石材は秩父産の緑泥片岩が主で、稀に小田石(おんじゃく)がある。北総へは中馬あるいは船にて運ばれたとみえる。一般に大型は地元の武蔵に多い。彫刻の梵字など主要文字は巧みで、丸彫り、薬研彫りとも地元の石工が刻し、忌日年月日には送先で刻したので稚拙なものがある。下総型と阿波型と大別され、下総型には上部に二線を刻したものが多い。この卒塔婆の名残りであろう。筑波の小田石は古墳期、古墳に用いられ、それを板碑に利用したのが、三坂神社(もと日野神社)境内にみられる。大生郷天神の菅原道真菩提供養碑もそうである。板碑の建立は一般大衆にはわずかに存し開山の僧侶や城主、地頭、郷士などが多い。柳橋城(総和町柳橋)主の菩提所には、天文末年、落人となるまでのものがある。中でも天文年間の四枚のうちには、刻字に金泥を塗り込んだもので男女の板碑が出土している。これは城主級のものである。なお逆修(げきしゅ)のものがある。これは城主が生前、戒名を得て法事を済ましたことを示すものである。
 

板碑
(大輪町満蔵出土)

 水海道大生郷の石塚大膳家屋敷内に未だ大生郷には来ない、先祖の石塚家を供養した、永和年間のものがある。また土着後の板碑もある。これ土豪級の建てたことを証したものである。
 水海道では五木田七左衛門家の祖先代々神棚に奉じたという板碑があり、郷士が造立したことを証したものである。
 また、寺院の開山も板碑に供養されている。水海道坂手村三福寺の板碑には開山念蓮社冏宏の没年、明応六年九月二日と刻してある(第四節三福寺参照)。
 岩井神田山妙音寺には開山長伽(慶現ともある)の没年、永和二年を刻した板碑が蔵されている。また宗派によって梵字キリーク、ハン等が刻まれている例もみられ、日蓮宗などは「南無妙法蓮華経」などヒゲ字がみられ、五霞村に存する。
 

市内の中世主要石造物一覧