南北朝時代は後醍醐天皇の元弘元年(一三三一)に、北條氏が持明院統の光厳天皇を擁立したことから始まる。[元弘三年/正慶二年](一三三三)鎌倉幕府が滅ぶと、翌建武元年、建武中興なる公家政治がおこった。そしてこの政治に反対する武家政治は、足利尊氏が[延元三年/暦応元年](一三三八)将軍となって室町幕府を開いて対抗し政権を争うことになった。
[延元元年/建武三年](一三三六)正月、新田義貞は弟の脇屋義助や千葉貞胤らを率いて、鎌倉にいる尊氏を陸奥の北畠顕家等と挾み撃ちしようと出陣したが、箱根附近で破れ京に引き揚げることとなった。これを尊氏は追撃した。ここにおいて、宮方は天皇を比叡山に奉じた。そのうちに北畠顕家の奥州勢が西上し正月二七日から三〇日までの戦に足利勢を西走させている。
このころ、正成は一族楠木正家を東下させて那珂、小田、大掾等の兵を集め瓜連(常陸那珂)に築城し、佐竹勢の攻勢を退けている。二月吉野から義良親王を奉じて陸奥大守顕家が再び東下したので、宮方は勢いを盛り返し佐竹勢を圧倒している。しかし、西国では九州に逃れた足利尊氏と弟直義が三月二日、菊池武敏を降し京に向かって上り五月二五日湊川に楠木正成を戦死させた。義貞は後醍醐天皇を比叡山に奉じ、千葉貞胤・宇都宮公綱・菊池武重・名和長年等とともに随行したが、その中に相馬氏があった。相馬忠重は、相模住人の強弓者本間孫四郎資武と共に坂本口で足利勢を撃退したが忠重の郎従には水海道絹西の地侍もいたであろう。『太平記』に、次のように記されている。
相馬四郎左衛門(忠重)五人張十四束三臥の金磁頭クツ巻テ残ラズ引ツメテ弦音高ク切テ放ツ手答トスガ
イ拍子ニ聞ヘテ、甲ノ直内ヨリ眉間ノ脳ヲ砕テ鉢着ノ板ノ横継キレテ矢ジリノ見ル許ニ射籠タリケレバ
アツト云声ト共ニ仆レテ矢庭ニ二人死ニケレバ、跡ニ継タル熊野、此矢ニ筋ヲ見テ前ヘモ不進、後ヘモ
不帰、皆背ヲクヾメテゾ立タルケル…中略…跡ナル寄手廿万、又本ノ陣ヘ引返ス
天皇は尊氏の甘言により一時京都に還られたが、やがて吉野に脱せられた。この間、山門にあった宮方勢は四散してしまった。東国でも宮方は漸次衰えを見せ那珂通辰は佐竹貞義に斬られている。
[延元元年/建武三年](一三三六)正月になってから陸奥の宮方勢は霊山城の天険に拠ったが、吉野や越前の義貞から西上を促されて九月一九日出動し途中で結城直朝と小山朝郷を捕えたが結城宗広の口添えで宥している。一二月一六日、宮方は利根の渡河戦に武家方を破って武蔵府中に屯した。この間、宇都宮氏に内紛があったのを鎮め、新田義興や北條時行(高時の子)の軍を加えて鎌倉を略した。[延元二年/建武四年](一三三七)正月鎌倉を発して和泉国石津に至り、五月下旬顕家は高師直と戦い遂に戦死した。そしてこの年の閏七月、新田義貞が藤島に戦没したことは宮方にとって大打撃であった。