ここにおいて宮方は結城宗広が復興を企て北畠顕信を亡兄の跡に補し義良親王を奉じて東下させることにした。八月一七日、伊勢湾大湊を五〇〇余艘の船団を組んで出帆したが、途中台風に遭い兵船は四散し親房の船は東條浦(常陸国信太郡)に漂着した。この結果、小田、関、下妻、真壁氏の援軍と共に神宮寺城に拠ることになった。しかしこの城も佐竹勢の兵船に攻め落とされ阿波崎を経て小田城に移った。この時親房に協力した名主が多く殉職し、「十三地蔵」の碑や「ホイホイ地蔵」の伝説を今に残している。
[延元三年/暦応元年](一三三八)一〇月より、小田城では親房を擁立し兵糧米を集め、関氏父子、下妻政泰、真壁氏等もそれぞれの城に拠った。翌年二月には親房の第四子ともいわれる春日顕時(別名待従顕国)が吉野から参陣している。
同年八月一六日、天皇が崩御された。親房は悲歎やるかたなく新帝後村上天皇(義良親王)のために、「職原鈔」を編したり、また、朱子学の立場から「神皇正統記」を著した。後著は後年関城に移ってからも続いて執筆したといわれるが、ここでは「皇代記」のみを著したという説もある。更にこの時期の著書に「元々集」という伊勢神宮宮司よりの聞き書きの記録がある。
足利尊氏から遣わされた高師冬は、同年一〇月二三日に下総に到着し、結城、山川などの兵を結集し中御門実寛の駒城(下妻市黒駒)や小田城を攻撃したが防禦が堅く対峙することになった。翌年四月、親房は奥州白河の結城親朝に援軍を求めたが砂金を送ってきただけだった。また、小山朝郷は意志を明らかにせず日和見的態度をとった。後村上天皇は顕信(顕家の弟)を吉野から小田を経て奥州に入らせた。
同年五月、春日顕時は守谷城主相馬忠重に迎えられ、その援助を得て新城(いまんじょう)を築いている。築城の土木工事には恐らく水海道南部(絹西地区)の百姓たちも労役に服したであろうと考えられる。
このように常総地方に宮方の拠点を一つ一つ築いていったが、五月二七日、最大拠点の一つ駒城が一時攻略される戦闘があった。翌日には顕時に率いられた関、下妻、真壁勢によって城を奪回したが実寛を救出することはできなかった。次に八丁目・沼の森の両砦を翌二九日には飯沼砦(猿島郡逆井村大鳥)を落した。この攻略には、守谷城主相馬忠重が水海道南部を騎馬で疾走して参戦した。時に高師冬は小田城に対峙していたが古河城に退却している。「南方紀談」によれば、この時飯沼砦にあって敗走したと記している。