小田氏の動向

254 ~ 256 / 517ページ
顕時から戦勝の報は親房や小田治久のもとへ直ちに伝わった。治久は飯沼砦の村、青鳥(おおとり)(猿島路の大通りで大鳥、青鳥と宛字される)を小田宗知の子宗己の開基した高岡村法雲寺(新治村高岡)に寄進した。この寺領については治久が[興国四年/康永二年](一三四三)寝返りをうって武家方となってからも変化がなかった。宗己は武家方の結城氏に招かれて結城に華蔵寺を建てているから、当時結城氏の勢力下にあった逆井郷青鳥村を法雲寺領にうけ入れたとみえる。法雲寺領については、『茨城県史料中世編I』に次のような史料がある。永和元年(一三七五)、一一月二五日、治久の子孝朝は前讃岐守として法雲寺方丈に青鳥村を「為後証判形也」として寺領であることを証し、五年後の[天授六年/康暦二年](一三八〇)には上杉憲方が禁制を出して保証している。
 
   禁制
     法雲寺正受菴領下総国青鳥村事
   右、軍勢甲乙人等不可致乱妨狼籍(藉)、若有違犯之輩者、可處罪科之状如件
    康暦二年九月六日   沙弥(道合、上杉憲方)(花押)
 
 また、翌年には上杉朝宗(犬懸禅助)が青鳥村の寺への寄進を続ける保証をしている。[弘和三年/永徳三年](一三八三)には、瓜連常福寺の聖冏(治久の女(むすめ)の子)が横曽根(水海道市豊岡)に法性寺を開山したが、飯沼城主(後の逆井城)逆井宗長(小山氏支流)に招かれ一寺を建立している。この寺は宗長の孫常繁が戦死した後弟兵部利光によって常繁寺と改称された。
 岡見信通は常陸河内郡岡見に住し、南北朝統一の前年、[元中八年/明徳二年](一三九一)一二月晦日、明徳の乱に山名時氏を討った功によって、足高(伊奈村)、牛久、谷田部を宛がわれて所替えし、その後戦国末に後北篠方となって多賀谷氏に同調した水海道軍と戦火を交えるのである。
 小田治久の子孝朝は宮方として若犬丸を匿っていたが、[嘉慶元年/元中四年](一三八七)小山氏の親身で下河辺氏出自の野田右馬之介の内報によって、上杉朝宗に兵を向けられ宍戸(岩間町)の難台山に籠った。援軍の真壁氏等は兵粮を送ってくれたが、翌年春、上杉勢に粮道を断たれて降るに至った。
 この難台山の攻防では、馬場(水戸)城主江戸通高が戦死し、その子通景に管領氏満から那珂郡西部の領地を数か所与えている。通景は佐竹義篤の女を娶って佐竹氏の家老となっている。
 その後、応永三年(一三九六)、若犬丸は田村清包・新田義則等の兵を集めたが氏満が結城館に出陣したので宮方は四散していった。
 応永四年正月、若犬丸は敗走先の会津で自刃し小山氏の家系はいったん絶えた。