足利基氏

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足利尊氏は[延元三年/暦応元年](一三三八)将軍となり京都室町に幕府を開いた。そして、次子基氏を[正平四年/貞和五年](一三四九)関東一〇か国を管するため鎌倉に配置した。これが通称関東管領と称されたもので、後に鎌倉公方、古河公方と改称されると、それまでの補佐役であった執事上杉氏の職名となった。
 基氏は反足利氏の攻勢に備えて各地に旗下の武将を置いている。総武州では、柳橋村(猿島郡総和町)に土岐大膳大夫頼遠の三男弾正忠を置き、附近六か村を治めさせ、山田村に山田大蔵(土岐氏旗下)忠政を措えた。土岐氏はその後柳橋姓を名乗り、天文二三年(一五五四)、柳橋豊前の時小山氏政に攻め落とされ、妻の実家苅間氏(谷田部町)を頼って落ちのび一族はそこで柳橋村を開田している。
 [延平二年/延文元年](一三五六)、基氏は父の命により新田義興(義貞の子)の南下を防ぐため武蔵入間川に在陣し、江戸房重らの着到を認めている。「江戸房重代同高〓著到状」(「古簡雑纂」)には、
 
   著到、江戸宮内少輔房重代同六郎四郎高〓右は、入間河御陣警固の事、二番衆として今日一日より同晦
   日に至り、勤仕せしめ候いおわんぬ、よって著到件の如し
     延文元年九月 日 承り了ぬ基氏(花押)
 
 とある。永禄期に大生郷城主に同名の江戸宮内少輔がいるがその祖ではない。